『ナショナリズムの美徳』(ヨラム・ハゾニー著)を読みました。
トランプ前大統領をはじめ、米国の保守派に大きな影響を与えた同書。
イスラエル人/ユダヤ教徒の著者が、ナショナリズム(国民国家主義)とリベラリズム/グローバリズム(リベラル帝国主義)を論じています。
今回は、この本の要点を紹介しつつ、併せて日本の在り方も考えてみたいと思います。
ネイション、国民国家、ナショナリズム
まずは定義です。ネイション、国民国家、ナショナリズムと言っても、論者によって意味するところが多少違います。ハゾニー氏の定義では……
「ネイション(nation)」とは
共通の言語や信仰をもち、防衛やその他大規模な事業のために一丸となって活動した過去を共有する、多数の部族(tribe)から成るもの
『ナショナリズムの美徳』p.32
「部族(tribe)」というと、何だか違和感がありますが、ここでの部族は、
民族や氏族と同様に、同一の出自や歴史的背景を持ち、共通の文化や言語、価値観の上で共同生活を営むとされる集団の単位のこと
部族ーWikipedia
と思われます。
ですから、イギリスやアメリカで考えると、
イギリス
共通の言語:英語
共通の信仰:キリスト教
共有する過去:産業革命や二度の世界大戦
部族:イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド人など
アメリカ
共通の言語:英語
共通の信仰:キリスト教
共有する過去:独立戦争や南北戦争、第二次世界大戦
部族:アングロ・サクソン系、アイルランド系、ドイツ系、ユダヤ系、アフリカ系、アジア系、ヒスパニック系など
日本の場合、共通言語は当然、日本語です。
信仰に関しては、「「なんらかの文化的価値」程度のもの」(p.286 施光恒氏による解説)と考えれば、共通性は明らかでしょう。神道をベースに、儒学や仏教が合わさった価値観。山本七平が「日本教」と呼んだところのものですね。
部族についてですが、旧皇族や外国から帰化した人たち等を除けば、ふだんから血筋でもって「他者との違い」を意識する人は少ないのではないでしょうか。他国に比べると文化的な統一度はかなり高いと思います。天皇のしらすこと2600年(日本書紀)と言われる、圧倒的に長い歴史、過去を共有しているおかげでしょう。
また、日本に多い年功序列・終身雇用・家族的経営の企業・会社は「部族」的とも思えます。日本における「部族」は、「共同体」に近いのではないでしょうか。
国民国家(nation state)とは
ネイションが首尾よく国家を持ち、独立国家として認められる地位を得たもの
前掲書 p.286 施光恒氏による解説
国民国家においては、「同胞」の要求に耳を傾ける事ができるとされる者が統治者となります。
ハゾニー氏は欧米の独立国民国家について、旧約聖書やプロテスタント主義由来の2つの原則があると言います。
ア 政府にとっての最低限の道徳規範/民衆の命・家族・財産の保護、公正な裁判など
イ ネイションの自決権/外国勢力に干渉されずに独自の憲法と教会の下に自らを治める権利
イの教会を「天皇」と考えれば、これらは我が国においても、共通していると言えましょう。
緊縮財政による国民生活の毀損、アメリカへの軍事依存による従属、問題の多い憲法など、不十分な点はいくつもありますが。
ナショナリズム(nationalism)とは
ネイションがそれぞれ独自の伝統を育み、干渉されることなくそれぞれの利益を追求し、それぞれが独立した進路を定めることができるとき、世界は最良の形態で統治されるという原則に基づく立場
前掲書 p.17
現実におけるネイション/国民国家は、相互の忠義の絆で結ばれた共同体であり、伝統を伝えていくものです。そして、その中の集団を見舞う逆境に、責任・義務をもって立向い、それによってさらに絆を強くします。
ナショナリズムにとって国民国家とは、同胞が虐殺されそうな、いわゆる「アウシュヴィッツ」的状況において、彼らを守る大切な存在です。
「ユダヤ人は、ネイション/国民国家が力を振るえないために虐殺された」とナショナリズムはとらえます。
リベラリズム/帝国主義/普遍主義
リベラリズムはネイションを必要としない
ナショナリズムと逆の立場を取るのが、リベラリズムです。
リベラリズムは、「個人の自由」を至上とするもの。
生まれながらに完全に自由・平等な個人が、同意・合意による取引の世界で生命・自由・財産を追求します。
「普遍的理性」と同一の自然法に導かれれば、個人は堕落せず悪意も持たないため、ネイションを必要としません。自らの生命と財産に代償を強いるような国民国家などいらない、と考えます。
このリベラリズムは政治、経済、法学を占拠しており、エリートの多くもその枠組みにどっぷりです。
リベラリズムは帝国主義
そしてハゾニー氏によれば、リベラリズムは帝国主義でもあります。
帝国主義は、古代から存在しました。例えばアッシリアや古代エジプトですが、広い領域で戦争を終わらせて平和をもたらし、普遍的秩序を志向します。ネイションの自立は平和を乱すと考えます。
この普遍主義/帝国主義に伝統的にこだわってきたのが、ドイツ。神聖ローマ帝国からナチスの「第三帝国」に至るまでの伝統です。
国民国家の解体こそが平和の道?
そのドイツの哲学者カント曰く、
「政府の唯一合理的な形態は、ヨーロッパの各国民国家が、いずれ全世界にまで拡大する唯一の政府を支持して解体されることだろう」
戦後ドイツのアデナウアー首相も、国民国家を排除しなければ戦争の惨禍の再発を防げぬとして、欧州連合創設を繰り返し訴えました。
リベラリズムにとって国民国家とは、自分たちの見解だけで他者に武力行使する、いわゆる「アウシュヴィッツ」的状況を作る悪しき存在です。
「ユダヤ人は、ネイション/国民国家によって虐殺された」とリベラリズムはとらえます。
ですから、リベラルは寛容と普遍的平和を掲げながら、ナショナリズムを憎みます。
ナショナリストを自任するトランプ前大統領や、そのイメージのあった安倍前首相が蛇蝎の如く嫌われるわけです。
大人になれないヨーロッパと日本
一方で、リベラリズム帝国主義において人々は、安全保障を「帝国」に頼ることになります。
戦後のヨーロッパは、「帝国」たるアメリカの軍に頼ってきました。
ヨーロッパの人々は、アメリカの気前の良い行為のおかげで存在し、依存状態に陥っているにすぎない。彼らは、独立した国民国家の解体によって世界平和への秘訣を見つけたというアデナウアーの主張を嬉々として繰り返し、自分たちを永久に子どものままにしている。(中略)帝国は、独立の放棄と引き換えに、平和を提供する。そのなかには、独立したネイションとしての思考能力、独立したネイションの生活にふさわしい成熟した政策を考案し実行する能力の放棄も含まれている
前掲書 p.61
これはまさに日本の問題に重なります。
リベラル的憲法の下、「帝国」たるアメリカの軍事力に頼りきり、自らの長期的展望を持てず、国力・国富をグローバル企業・国際金融資本に蚕食されるに任せています。
ナショナリズムばかりが「憎悪や偏見の道」ではない
状況を改善するには、我々が「大人」になるしかありません。
すなわち、同胞の忠義の絆を大切にし、その延長線上にある国家の運営を我が事として考えることです。
ハゾニー氏の言うナショナリズム、「ネイションがそれぞれ独自の伝統を育み、干渉されることなくそれぞれの利益を追求し、それぞれが独立した進路を定める」を、日本も取らねばなりません。
「そうはいっても、それぞれの国益追求が憎悪や偏見を生み、戦争など多くの悲劇を生むじゃないか!」
というような反論もあるでしょうが、リベラリズム・普遍的政治理想側のナショナリズムに対する憎悪・偏見・蔑視を見れば、お互い様です。憎悪や偏見は人間の性・業であって、ナショナリズムの専売特許ではありません。
ナショナリズムこそ寛容と平和、そして発展の道
むしろ、以下に引用するように、ナショナリズムこそ寛容と平和、そして発展の道です。
自信を持って、この道を進みたいと思います。
国民国家の秩序が集合的自己決定の最大の可能性を提供することを示す。すなわち、この秩序は対外征服事業への反感を植えつけ、多様な生活様式に寛容になる道を開き、また、その秩序があることによって、各ネイションは各自の能力、およびその構成員の能力を最大限に向上させようと努めるので、ネイション間に驚くほど生産的な競争が引き起こされるということだ。加えて、国民国家の中心にある強力な相互の忠誠心が、自由な組織と個人の自由の発展を築く唯一の基礎となる
前掲書 p.25