ジョサイア・ロイス『忠義の哲学』|ナショナリズムの理想

この記事は約6分で読めます。

「表現者クライテリオン」の2022年7月号に、「共同体と忠誠心 ジョサイア・ロイスのアクチュアリティ」(白川俊介)という論考が掲載されました。

ジョサイア・ロイスは19世紀末~20世紀初めのアメリカの哲学者です。
昨今、ほとんど注目されることがなかったところ、今回の記事。
彼の『忠義の哲学/philosophy of loyalty』を翻訳するなどしていた私としては、うれしい限り。

これにあやかって、改めてロイスの言う「忠義/loyalty」を考えてみたいと思います。
なお、ロイスの言う「忠義」は日本の武士道から大きな影響を受けています。

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ジョサイア・ロイスの「忠義」

「忠義」は個人に基づく

ロイスによれば、忠義とは、
自らの「義」を選び取ること、
その「義」のために懸命に行動すること
」です。

忠義の対象である「義」とは、
「自分自身の『外』にあって、自分自身よりも価値がある」「単なる個人意思を超越している」「人を他者と結びつける」もの。

例えば、家族、仲間、地域社会、会社、国家などが挙げられます。

なお、「義」は「cause」を私なりに訳したものです。白川俊介氏は「大義」とされていますし、他の方の訳では「義標」というのもあります。

忠義は道徳の究極、最高善

今では忠義というと、「武士の美徳」「上の者への盲従」「集団への埋没」といったイメージがあります。個人がないがしろにされる感じですね。

しかし、それは忠義ではありません。
忠義は「自らの「義」を選び取ること」で始まります。
自己決定が第一です。その上で選んだ「義」のために懸命に行動します。

「家族のためにがんばる!」は忠義の一形態です。
「藩のために死力を尽くす」「会社のために心を砕く」など、共同体への献身的行動が忠義となります。殿様や社長個人への絶対服従とは異なるのです。

このような忠義は、「何のために生きているのか」という疑問に答えをくれます。
忠義は道徳の究極、最高善なのです。

忠義への忠義

しかし、忠義同士がぶつかり合うこともあります。
戦国時代で言えば、織田家と武田家など。

忠義な者は、自らの「義」のために懸命に行動します。
よって「義」と「義」が敵対するような場合には、その争いは苛烈なものになりがちです。
それは多くの命を危うくするものであり、最高善である忠義自体を破壊します。

この「最悪」を避けるためにロイスが提唱するのが、「忠義への忠義」です。
他者の忠義をも大切にし、そのために献身すること。
争いが避けられなくとも、相手の忠義を尊重します。

わかりやすい例で言えば、互いの健闘を称えるスポーツマンシップや、強敵に敬意を払う武士道・騎士道ですね。

忠義と国家・愛国心

国家を身近に感じられるか

国家への忠義、愛国心は大切です。しかし、なかなか難しい面もあります。

忠義の対象である「義」は、自分にとって「親しい」「愛着がある」ものである必要があります。

ところが、「国家」は大きすぎて、なかなか身近に感じられません。
そのためか、「国家」というと、巨大な権力機構とばかり勘違いされがちです。

政府のことが「国」と呼ばれてしまうのもその一助となっているように思えます。
国家は、忠義の対象となりにくいのです。

人間疎外と「愛国心」

一方で近代においては、「人間疎外」が進んでいます。
共同体から遊離した個人の増加です。バラバラになった砂粒のような個人。

「家族も地域も面倒でうっとうしいだけ、オレは勝手に楽しく生きるんだよ!」
ということですね。

もっとも、「疎外」の人も社会的存在たる人間ですから、「個人」としてのみ生きることはできません。何らかのつながり、拠りどころを求めます。

そのような人が「国家」を自らの拠りどころとした場合、政府の盲信・国家権力への隷従を「愛国心」と勘違いすると考えられます。あるいは、もっと狡猾に自分の利益のため、「愛国」を称する者もいるでしょう。「忠義」「愛国心」にとっては困ったことです。

地元への忠義から国家への忠義へ

国家への忠義、愛国心を正しく育てるには、どうすればいいのでしょうか。
ロイスは、地域への忠義に着目しています。

地元、自らの住む市や町を大切にし、より良いものにすべく行動することです。

自治会などの地域活動、ボランティア。地域の課題を仲間と共に考えて議員や役所に折衝するなど。
地域の歴史や人物を調べて顕彰することなんかもいいですね。

大切なのは地域の誇り、地元への愛が温かく成長すること。
地域への忠義を通じて、国家への忠義を育てるのです。

幅広く発展した地元忠義こそが、個人の小さな利害関心と、広大な祖国愛をつなぎます。

「忠義への忠義」とナショナリズムの理想

人間疎外とグローバリズム

国家への忠義や愛国心は、
「戦争を呼ぶ! 人類の悲惨の源だ!」として非難されがちです。
国民国家を大事にしようとするナショナリズムともども、白眼視する人も多い。

そのような人々は国家を蔑視し、国連やEUといった国の枠を超えた機関を称揚します。

自国の利益のみに凝り固まった各国政府より、世界のエリートが結集した機関の方が正しい、という主張。グローバリズム的思考ですね。

真摯にそう考えている人も多いかもしれません。
しかし、こういった主張もまた、「人間疎外」の結果とも思えます。

「砂粒」の個人が、自らの拠りどころとして「グローバルエリート機関」を礼賛している。
そんな場合も多いのではないでしょうか。
 
ともあれ、国連などのグローバル機関でも戦争を止めることはできません。
ウクライナ・ロシア戦争でも顕著です。

国家間の争いがもたらす悲惨は人間の業。消滅することはないでしょう。
それでも、これをできるだけ小さくするにはどうすればいいのでしょうか。

「忠義への忠義」による国際主義

ロイスは、「忠義への忠義」「人類忠義の拡大」こそが大切だと言います。

「忠義への忠義」、他者の忠義を大切にし、忠義の心そのものが多くの人に広がるようにすること。

この心でもって、地域への忠義から積み重ねられた「自国への忠義」が正しく「愛国心」と呼べるものです。
身近な共同体への忠義が成長し、大きな共同体への忠義へつながります。

こうして育った「国家への忠義」は、他国の忠義をも尊重します。
自国の利益のみを求め、戦争を仕掛けたり、経済的に収奪したりはしないでしょう。

国家間においても「忠義への忠義」を求めるのです。
国家はそれぞれ、自国のために成長・発展を求めつつ、隣人として他国と交際する。

国境を低くするグローバリズム(全球主義)でなく、国境と独立を重んじる国際主義です。

グローバル価値としての「忠義への忠義」

この国際主義においては、「忠義への忠義」をグローバルな、普遍的価値として持ちつつ、国々が交際することになります。

もちろん、国益のため争うことはあるでしょうが、それは最小限に止め、相手国を破壊し尽くしたり、体制変更を強制したりすることは控えます。互いの在り様に敬意を払うのです。

この国家間の「忠義への忠義」は、ナショナリズムの理想にも通じるものだと思います。

ナショナリズムはネイションがそれぞれ独自の伝統を育み、干渉されることなくそれぞれの利益を追求し、それぞれが独立した進路を定めることができるとき、世界は最良の形態で統治されるという原則に基づく立場

『ナショナリズムの美徳』ヨラム・ハゾニー著 p.17

トップ写真:Royce Hall, UCLA by Alfred Essa

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阿吽
1 year ago

・私がロシア人なら、ロシアという国家への忠義のために、プーチンをどうにかして排除したいと思うでしょうね・・。

 ロシアという国家への忠義を貫くなら、プーチンはロシアを壊す可能性のある男と・・、私がロシア人なら思うでしょう。

 国家への忠義を、プーチンへの個人崇拝くらいに思ってる人間が、極右だとかそういうたぐいの人種になるのでしょうね・・・。(日本で言うなら安倍ちゃんに対する支持が愛国だと思ってるネット右翼とか)

 でも私は、ビビって部屋から出れずに嵐がさるのを待つしかできない、そんな愚か者になる可能性がだいぶん大ではありますが・・。

 もしくは、迫害や逮捕が怖いから、その他の人と一緒になって、思ってもないプーチン支持を路上でしてるかもしれません・・。

 それは、忠義からもっとも離れた姿です。

 小市民は、そうやって懊悩とするから、忠臣蔵だとか、ああいう命がけの行動に憧憬を抱くんでしょうね・・。
(忠臣蔵も、広義では、あれは仇討ちというよりも幕府(の裁定)への異議申し立ての部分があるかと思いますので・・)

Last edited 1 year ago by 阿吽
阿吽
Reply to  バケツリレー
1 year ago

だからこそ、こういったみなさんのご活躍は、必ずやどこかで気づかなくとも、バタフライエフェクトをおこしているだろうと、これは私はもう、確信に近いレベルでそう思っています。

当ブログは2019年5月に移転しました。旧進撃の庶民
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