杉本五郎中佐遺著『大義』|解説 第五章『皇道』 天皇機関説の問題点

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戦前日本のベストセラー『大義』(杉本五郎著)の解説連載第7回です。 今回は第五章「皇道」です。現代語での大意を示したうえで、これを現代に生かすべく、私なりの解釈・解説を行います。原文はこちらの「大義研究会」のサイトでご覧ください。

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第五章 「皇道」の大意

皇道とは、天皇がお歩みになる道である。
よって、人々もまた共に歩むべき道である。
至正至純は、天皇の真の御姿であって、宇宙最高の道である。

明治天皇御製
浅緑澄み渡りたる大空の
広きを己が心ともがな
(澄み渡る大空の広さ。私の心もこのようにありたいものだ)

これはまさに天地と同根、万物と一体、至正至純な天皇の御姿である。
この至正至純の大御心から流れ出たものが、
明治天皇の御宸翰の一節、

「天下億兆一人モ其所ヲ得ザルトキハ皆朕ガ罪ナレバ今日の事朕自ラ身骨ヲ労シ心志ヲ苦メ艱難ノ先ニ立チ」
(天下において、居場所がないという人が一人でもいれば、それはすべて私の罪なのですから、現代日本の困難を前に、私は自ら行動し、心を砕き、先頭に立って)

という大慈悲なのだ。
至正至純だからこそ大慈悲なのである。
大慈悲であるからこそ至正至純である。

仏心とは大慈悲のこと。
仏とは事物にこだわったり、煩悩にとらわれたりしない者である。

こだわりもとらわれもないからこそ、「浅緑澄み渡りたる大空の広き」と同じ大きな心で、大慈悲となるのだ。大慈悲なしに、こだわりやとらわれから自由であることはない。

至正至純は、宇宙の大きさと無限の慈愛とを兼ねた宇宙最高の大道なのである。
世界を指導する根本原理は実に、この天皇道である。
民もまた、この至正至純となるならば、天皇と一体となり、君民一如になる。

この天皇道こそ、すべての人々の辿るべき大道ではないか。
人類救済の鍵ではないか。唯一無二の避難所ではないか。

永遠に天皇を仰ぎ、互いに励まし合ってまっしぐらに天皇道を進むのだ。
荒波が襲いかかろうと、鉄火に焼かれようと、世界の国々と争うことになろうと、迷うことなく一途に天皇道を直進せよ。これが神国日本を実現する最良最短の道である。

世界の聖者が説くものは、結局すべて天皇道なのだ。
至正至純と純一無雑とを混同してはならない。

北条高時に殉じて死んだ八百人の家臣も、同じく仲時に殉じて死んだ四百人も、はたまた北条義時に孝養を尽くした泰時も、足利の将軍や徳川の将軍に殉じた家臣も、さらに美濃部達吉や北一輝およびその一派も、純一無雑の心境にあった点においては特筆すべきだが、決して至正至純ではない。純一無雑の大不忠なのである。

至正至純は、天皇である。
天皇に殉ずる者のみが至正至純である。
それはすなわち、忠であり、孝なのである。

(解説)天照大神の境地、至正至純

天皇は人の身において、天照大神の境地に立とうとされている。
「我執を持たず、太陽のような慈悲の心で人々の安寧と世の平和のために尽くす」お方です。

明治天皇の「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」「教育勅語」を見ればわかるように、
「自らが先頭に立ってがんばるので、国民の皆さんもついてきてほしい」
ということを天皇は国民に訴えかけておられます。

天皇が国民と共に目指す境地。
それが「澄み渡る大空のような広い心」=大慈悲=至正至純です。

我々国民も「我執を持たず、太陽のような慈悲の心で人々の安寧と世の平和のために尽くす」よう努力する。それはすなわち、天皇に尽くす忠義である。

そして、「四海ノ内誰カ朕ガ赤子に非ザル」(天下において私の子でない者がいようか)というのが天皇ですから、天皇=「親」、人々=「子」。
よって天皇に尽くすことは「孝」でもあります。

(解説)純一無雑の大不忠

一方、純一無雑はどうか。
こだわりやとらわれから自由になって、行なおうとする仕事、尽くそうとする相手に没入する。修練を重ね、この境地に至ると、画家であれば素晴らしい絵を描けるし、音楽家であれば見事な演奏が可能です。武士ならば、主君のために命懸けの立派な働きができるでしょう。

しかし、それだけでは不十分。執権や将軍といった主君に殉ずる、あるいは父親のために懸命に働く者は立派ですが、天皇を尊ぶことができていなければ、真に正しいとはいえない。場合によっては天皇に背く「大不忠」となってしまいます。

(純一無雑/無雑純一について詳しくは↓)

(解説)美濃部達吉と北一輝

鎌倉武士などの例はわかりやすいですが、問題は美濃部達吉と北一輝。この二人については少々解説が必要でしょう。

美濃部達吉は明治~昭和の法学者。
「天皇機関説」を唱え、明治末~大正初の「機関説論争」において「天皇主権説」の上杉慎吉らに勝利。彼の学説は大正デモクラシー下の通説となったが、昭和10年(1935)の「天皇機関説事件」では逆に国体に反するものとして排撃された。

北一輝は明治~昭和の思想家、国家社会主義者。
天皇を革命のための「機関」ととらえ、『日本改造法案大綱』でクーデターによる国家改造(天皇の下に、社会主義国家をつくる)を主張、青年将校たちに多大な影響を与える。その青年将校らが起こした二・二六事件に連座して刑死。

『大義』においては、この二人を特筆すべき人物としつつも「大不忠」としています。「天皇を機関ととらえること」に問題があるからです。

(解説)天皇機関説とは

天皇機関説は大日本帝国憲法(明治憲法)の解釈論として登場したもので、その趣旨は……

日本の主権(統治権)は国家にあり、天皇はそれを行使する最高機関である。
行使にあたっては内閣など諸機関の輔弼(助言・賛同)を必要とする。

この学説は西洋の「国家法人説」を日本にあてはめて明治憲法を解釈しており、それ自体として理屈はよく通っています。明治以来の「舶来もの志向」と大正デモクラシーの風に乗り、旧来の「天皇主権説」を圧倒、学界の通説、統治エリートの常識となりました。

では、その何が問題なのか。

美濃部達吉

(解説)天皇機関説の問題点/基礎

一つには、『大義』で述べられているような天皇像をずいぶんと矮小化してしまうことです。

すべての国民の「親」として「子供たち」を慈しむ。
お天道様(天照大神)のように、世のことを、人々の思いをくもりなく知ることで天下を統治する(しろしめす)。少なくとも連綿とそのように努めて来られている。

そして国民の方も、古来より多くの人が天皇・皇室に心を寄せ、忠孝を尽くしてきた。
君民が一体となって慈しみ合いながら歴史を重ねてきたのが、日本という国です。

そもそも西洋流の国家法人説は、ルイ14世のような絶対君主の「王権神授説」の時代を経て生まれた国家概念。すなわち「国家=権力」という考え方に基づいているのですから、我が国に当てはめるのは無理があると思います。

美濃部の論敵、上杉慎吉は次のように述べました。

「一家親子夫婦和気藹々と暮らして居る所へ、家庭とは数人の人が親爺の権力の下に集合する団体なりと聞かされた如き有様てある」

(上杉慎吉『国家新論』敬文館)

(解説)天皇機関説の問題点/発展

第二は、機関説から発展する考え方にあります。こちらは北一輝の主張したところです。

機関説では、主権は国家にあり、天皇、内閣、官僚、議会、軍、裁判所などはその権力発動のための機関に過ぎない。天皇はそれら諸機関の中で最高の権力を有する「政権者」である。

そこには事実上の最高権力者、「政権者」こそが「天皇」という論理が生じる。
天皇が天皇であるのは、無制限の主権を持つ国家の機関だからに過ぎない、ということです。

さらに、北一輝は『国体論及び純正社会主義』第十六章で孟子を引き合いに、国家の利益を無視する国家機関は「君にあらざる所の一匹夫」であるとして、そのような者を打ち倒す革命を肯定しています。

ということは、国家利益の何たるかを、国家・国民のためにはどうすべきかを最もよく知っている者は、革命を起してでも「政権者」となってよいはず。
少なくとも、国民のためにならない政治が横行している場合、そのような権力者を倒し、自らの信じる政治を「天皇という最高機関」に行わせてよい。

そのような論が展開され得ます。
天皇が「革命のための機関」とされてしまうのです。

この延長上に引き起こされたのが、先々週の投稿で取り上げた二・二六事件。実際に、悲惨な「大不忠」の結果が導かれてしまったわけです。
(参考資料:『昭和陸軍の将校運動と政治抗争』竹山護夫 名著刊行会 平成20年)

(解説)昭和天皇の御感想

もっとも、昭和天皇は天皇機関説/美濃部達吉に対しては評価しておられました。二・二六事件が起こる前、昭和10年(1935)の「天皇機関説事件」の際に以下のようにおっしゃったと伝えられています。

主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ

『西園寺公と政局』 https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇機関説

(解説)大切なのは「君国同一」「君民一如」

お言葉にもありますが、大切なのは「君国同一」「君民一如」の国柄です。
その点、杉本中佐の説くところもそうです。

現在においては、天皇主権でも国家主権でもない、「国民主権」を掲げる憲法の下、我が国ではエリートの私益優先、多国籍企業優先、外国優先の政治が猛威を振るう。
緊縮財政による政府の「店じまい」が、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の風潮の蔓延、「君国同一」のはずの国家の解体を進める。

このような時、我々はどうすればよいのか。
まずは「澄み渡る大空のような心」で社会状況を見る。
そして、「君民一如」の国柄を思い、「至正至純」の天皇の下に力を合わせる。
それこそが我が国の復活への道だと思いますが、いかがでしょうか。


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