前回に続き、戦前日本のベストセラー『大義』(杉本五郎著)の解説連載第2回です。
今回は第1章「天皇」の後半です。現代語での大意を示したうえで、私なりの解釈・解説を行います。原文はこちらの「大義研究会」のサイトでご覧ください。
第一章「天皇」 後半の大意
日本人は自分を救うことを目指すのではなく、天皇の御威光を広げることを目指さねばならない。もちろん、自分個人というものも天皇の御威光によって救われる。けれども自分が救われたいから、天皇の御威光を広げようと願うのではない。
天皇の前では個人は「無」なのだ。日本においては君主と国民が一体(君民一如)であるといっても、自分個人が尊いのではない。自己の中に現れた天皇が尊いのである。
天皇への修養すなわち忠義は、あくまでも天皇自体のためでなければならない。すべては「無」なのである。人生のために天皇があるのではない、天皇のために人生があるのだ。楠木正成公はこう詠んだ。
身のために君を思ふは二心(ふたごころ)
君のためには身をも思はじ
国家のために天皇があるのではない、天皇のために国家がある。
この大いなる自覚は、世間的価値観をひっくり返して、永遠悠久の天皇に唯一最高の価値を認めれば、極めて単純明白なものとなる。魂の救いだとか永遠の幸福だとかが究極の目的だとすると、天皇は手段であって最高の存在とはならない。
自分の学識・職業・生活レベルによって尊皇のレベルが左右されるとすれば、それは自己中心的な人物である。ただただ身も心も捨て去って、さらに何物を望むことなく、ひたすらに天皇に帰一するのだ。
(解説)天皇の御威光とは?
まず留意しておくべきは、『大義』は道徳の頂点、理想像を記したものだということです。著者の杉本五郎氏ですら、体現できていないと自ら述べるほど高みにある目標です。この境地に近づく者、近づこうと努める者が一人でも二人でも増えればよい、というものであって、到達できていない人を非難する基準ではありません。
それを踏まえた上で解説/解釈に入っていきます。
まず「天皇の御威光」、原著では「皇威」ですね。
単純に水戸黄門の印籠のような、誰もがひれ伏す「無敵の権威」的なイメージで捉えてしまうと、本質を理解できないことになります。
「神の境地で人々の安寧と世の平和のために尽くす」という天皇の大御心、そしてその実現のために働く国民の努力(意識的でないものも含む)によって形成される、それが「天皇の御威光」だと思います。
「天皇の御威光」は、インフラ整備や医療・福祉事業をはじめ、人が生きる上での諸問題を解決しようとするあらゆる事業を支えるものであり、また社会における人々の相互信頼、秩序、伝統、文化を支えるものでもあります。これらによって、個々の日本人が救われていることは論をまちません。
(解説)個人にとっての最高善
また個々人の生き方・心の持ちようにおいても、信じるに足る価値・指針を与え、迷妄や虚無感、絶望から救ってくれるものだと思います。
ジョサイア・ロイスの『忠義の哲学』においては、忠義とは個人にとっての最高善であり、
「何のために生きるのか?」
「なぜここにいるのか?」
「自分は何か役に立つのか?」
「自分に生きる意味はあるのか?」
という人生最大の疑問に答えを与えてくれるとされていましたが、
「天皇の御威光」を知り、それを広めようと努めることは、まさにこの意味での「救い」を得ることにほかなりません。
(解説)「自我」「利己心」を「無」にせよ
問題は次の部分。
「天皇の前では個人は「無」なのだ」
「人生のために天皇があるのではない、天皇のために人生があるのだ。」
さすがに行き過ぎだと思われそうです。
「天皇の前では人民は無価値、天皇のためならどんだけ死んでもかまわない、まさに狂気の危険思想!」
と沸騰する人も出そうですが……
しかし解説冒頭で述べたように、『大義』は道徳の頂点、理想像を訴えるもの。
上記の言わんとするのは、「自我」「利己心」を「無」にせよ、と解すのが自然でしょう。
どれだけ人の役に立つ仕事に真面目に取り組んでいようと、天下国家のための言論活動などに勤しんでいようと、利己心は捨てがたい。
保身や出世のため、志に背を向ける政治家や官僚がどれだけいるか。
ましてや、「ほめられたい」「認められたい」「注目されたい」「ライバルに負けたくない」といった自意識を捨てることはさらに難しい。
かく言う私も、自分の記事のプレビュー数だとか評価だとかが気になって仕方がない。「誰かいい感じのコメントとかくれないかな~」などと思ってしまう。
(解説)空いたところに何を入れる?
もちろん、「認められたい」という気持ちは向上心に通じます。それによる研鑽が実を結び、「天皇の御威光を広げる」ことに役立つ場合も多いでしょう。しかしそこでうまくいった結果、慢心が生じたり、得られた地位を固守することが最優先になったりするかもしれない。
まあ実際のところ生きている限り、どこまでもついて来るのが「私心」「利己心」なわけですが、これをできる限りちぎっては投げ、ちぎっては投げして忘れるようにし、「無」に近付くべきだということです。
そして「無」にしたところに、天皇の大御心を迎え入れる。こうしてこそ「天皇の御威光を広げる」にあたっても成功に近づけます。なぜか。
前回述べたように、天皇の大御心は天照大神の御心。天照大神は鏡であり、鑑。この世のあらゆる経験・真理・真実をそのまま映し、受け入れ、把握している。私たちが私心を無にして「天皇の大御心」を迎え入れることができれば、天照大神のようにくもりなく真実を認識することになる。成功への道筋を見出すことができる。
(解説)ただ生きているだけでも、人には価値がある
このような理想状態こそが日本の「君民一如」。「神の境地で人々の安寧と世の平和のために尽くす」天皇の大御心を我が身に体現するからこそ、民も尊くなる。
真に尊いのは、天照大神であり、人の身をもって神の心で生きる天皇である。
といって「君民一如」を体現できない人々が、卑しく無価値であるというわけではない。
なぜなら、
1 天照大神(=太陽)の恵みを受けて生きている
2 天皇(=天照大神)が人々の安寧を祈っておられる
ただ漫然と生きているだけでも、人には価値があるのです。
(解説)天皇は国家に先立つ
また、私たち個人が何か良い事をする、新たな価値あるものを創り出すとしても完全に独力で、ということはあり得ません。自分が成し遂げた!と思ってしまいがちですし、そう思いたくなってしまいますが、よくよく考えてみれば、
天照大神の、天皇の恵みをいただいた先人たちの努力の上に「付け足して」いるのです。
我が国の学問も技術も芸術も、政治も軍事も生活すべて、天皇に始まって成り立つもの。天皇は道徳と伝統、道義の根本です。
すなわち、天皇は国家に先立つ、天皇あってこその国家と言い得ます。
天皇に正しく忠義であろうとすれば、国家・国民に正しく忠義となること自然です。
ところが、国家・国民のために天皇がある、と考えるとどうなるか。
「国家の生き残り」が最優先事項となり、道徳・伝統はそのための道具となる。
「国家の生き残り」のためなら、使わずともよい、省みなくともよいものになる。
国家が「保身」のために道義を省みないとなれば、企業も国民もそうなります。拝金主義・弱者切り捨ての淵源ここにあり、ではないでしょうか。
やはり「人生のために天皇があるのではない、天皇のために人生がある」
「国家のために天皇があるのではない、天皇のために国家がある」なのです。
(解説)「天皇に帰一せよ」の意味するところ
そうであれば国民は、天皇の願いである「人々の安寧と世の平和」のために努力することになる。学歴がないからとか、平社員だからとか、無職だからとか、地方の田舎住まいだからとか、そんなことは関係なく、各自の境遇において全力を尽くすことが求められる。
前回で大意をお示しした部分に
「憲法、法律、宗教、道徳、学問、芸術など、あらゆる「道」は人を天皇の大御心に一体化させるための手段である」
とありましたが、
どのような職業、家庭、環境にあっても、天皇の願い成就のために尽力することは可能。
「天皇に帰一せよ」とはそのような意味だと考えます。
(解説)現代の国民がなすべきこと
さらに言えば、複雑化・専門化が進む現今、ただ自分の仕事に真面目に尽くすだけでは不十分とも思えます。
弱者を救い、国土を強靭化し、国力を増すにはどうするか、政治家や官僚や学識者などに任せっぱなしにしてはならない。私たち国民が現状を正しく認識し、解決すべき問題を把握することが必要です。
現代においては、
カネ/貨幣は、価値の媒介であってそれ自体が貴重なものではなく、過剰なインフレにならない限り国家によって無限に発行可能である、と理解する。
プライマリーバランス目標を破棄し、財政を拡大して国民の所得を増大させると共に、国内の技術力や供給能力を育成する。
過剰なグローバル志向、異文化共存礼賛、ポリコレ論争などに歯止めをかけ、ナショナルな連帯を醸成する。
そのための言論や行動をする人が増え、さらに各自の取り組みの真剣さが増して力を合わせられるほどに、国家・国民も救われる。「天皇に帰一せよ」とはそのような意味でも大切であり、まさに今、私たちが自ら考えるべき事柄だと思います。
次回は第2章「道徳」です。おつきあいいただければ幸いです。
>そのための言論や行動をする人が増え、さらに各自の取り組みの真剣さが増して力を合わせられるほどに、国家・国民も救われる。「天皇に帰一せよ」とはそのような意味でも大切であり、まさに今、私たちが自ら考えるべき事柄だと思います。
まさしくそのとおりではあるのですが・・、これはなかなか難しいですね・・。
なにが難しいって、理解するのが難しいと思います。
天皇というイメージをすれば、個人(昭和なら裕仁氏)を思い起こす人が多いかと思います。
しかし、ここで説明をしている天皇は現人神(=人身御供)としての裕仁氏です。
ここを理解できないと、ただの危ない個人崇拝者になりかねないですし・・、実際に、そういう勘違いをした人は当時も含めて少ない数いたのではないかと思います。
これは、天皇が悪いとかそういう話しではなく、人の身で神を体現することの限界とも言えますかね・・・?
どうしても、かんちがいして解釈してしまう人がいるかとは思います・・。
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勘違いする人のために、例をあげて書きますと・・。
『天皇に帰一せよ』
これを・・、
『仏心に帰一せよ』
・・とでも書けば、まだ、理解が容易くなるのではないかと思います。
また例えばこれを・・、
《日本人は自分を救うことを目指すのではなく、天皇の御威光を広げることを目指さねばならない。もちろん、自分個人というものも天皇の御威光によって救われる。けれども自分が救われたいから、天皇の御威光を広げようと願うのではない。》
↓ ↓ ↓
《人間は自分を救うことを目指すのではなく、神の御威光を広げることを目指さねばならない。もちろん、自分個人というものも神の御威光によって救われる。けれども自分が救われたいから、神の御威光を広げようと願うのではない。》
こういうふうにでも変換すれば、まるで聖書の一説がごとくになります。
つまりは杉本さんの言われたいことと言うのは、こういうことなのですね。
こういうふうにとらえれば・・、杉本さんが、ただの天皇崇拝者ではなく、それどころか仁義を愛する人だということが、理解してもらえるのではないかと思います。
そしてその前提には、天皇というものが現人神(=人身御供)であるということもあります。
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また、天皇の威光を広めると言うことは、これは利他の精神ですね。
天皇の威光(人々の安寧と世の平和への祈り)を広めるということは、人々の安寧と世の平和を希求する人民ということになります。
そして、この考え(人々の安寧と世の平和を希求する考え)は利他の心です。
つまりは天皇のご威光を広めると言うことは、それすなわち世のため人の為に生きるということになるのです。
そしてこの考えは、今だけ金だけ自分だけの考えとは、対極の意味をなすものとなるでしょう。
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これはまず、天皇という立場の生き方が、それすなわち人をやめるに等しい生き方だと言うことを理解しなければ、なかなかに理解が難しいかもしれませんね・・。
そこまで理解せずとも、天皇に恥をかかせない生き方をするという忠義の人になれば、それはナチュラルに、仁義の人なるのかもしれませんね。
杉本さんのように、俗っぽい言い方をすれば・・、弱きを助け強きを挫く。強いと言うことは、家族や仲間、国家を守るためにあるもの的な・・、かっこいい男、人間になるのでしょう。
ありがとうございます。天皇を「仏」や「神(キリスト教的)」と
入れ替えると現代日本人にもわかりやすい、ということはありそうですね。
とはいえ……
藤井聡先生によれば、パスカルの言「人間は考える葦である」の意味するところ、人間は社会的存在として意識の奥底においてつながっているそうです。葦や竹の群落が地中の根で全部つながっているように。
天皇/天照大神はそのつながり(日本)の奥底の統一点をなすものだと思います。(「天」なのに地の底にあるようで、ちょっとおかしな感じですが……)
すなわち、日本人なら天皇/天照大神へ帰一しようとするのがやっぱり一番自然なので、そう素直にとらえてくれる人が増えるのを願うところです。