「しょうがないよ」と「日本スゴイ」は日本人の劣等性か?

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『表現者クライテリオン』3月号の鼎談「愛国が故の「反日」とは、一体何なのか?」で、日本人の劣等性・本質的欠陥についての議論がなされました。

【公開】クライテリオン3月号特集2鼎談 愛国が故の「反日」とは、一体何なのか?
【公開 続き】クライテリオン3月号特集2鼎談 愛国が故の「反日」とは、一体何なのか?

藤井聡・前田日明・小幡敏3氏の論に、大いに首肯する一方、もう少し深く考えたいところもありました。
鼎談で話題となった「しょうがないよ」と「日本スゴイ」について、述べてみたいと思います。

(隔月刊5月号が発売とのことで、出遅れ感がありますが……)

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「しょうがないよ」という巨大な空気

日本人の代表的な「欠陥」として挙げられたのが「責任を取りたがらない」こと。
そして、問題解決を妨げる「「しょうがないよ」という巨大な空気」です。

「しょうがないよ」はなぜ生まれるか?

では、この「しょうがないよ」はなぜ生まれるのでしょうか。

例えば職場などで、問題解決の提案をしたとします。
それが周囲にとって共感でき、実現の見通しが立つものであれば、うまくいくことが多いと思います。

一方、提案が受け入れらない場合には……

ア「提案により、周囲に過大な負担が予想される」
イ「提案者とその周囲の力、責任範囲では決められない事項を含む」
ウ「その提案は上位者の意向に反する」
エ「そもそも提案者が周囲から十分な信用を得ていない」

といった事情により、「しょうがないよ」が生じると考えられます。

関係者への負担、周囲への責任?

ア~ウは関係者への負担です。

説得、根回し、資料作り、気苦労。
上位者の機嫌を損ねる危険もあります。
解決提案がうまくいかなければ、なおさらでしょう。
「そんな無責任なことはできない」となります。

「責任を取る」ことを重視する姿勢があるように見えますが、
これは「周囲の目」に対するものに過ぎません。
職務を通じて誰もが目指すべき、「公共の福祉」「公益・国益」に対する責任ではないでしょう。

信頼関係 vs.「しょうがないよ」

エは提案者と周囲の関係です。

これが実はたいへん重要で、「信頼関係」がガッチリ構築されていれば、ア~ウを乗り越えることが可能となります。

「こいつが言うなら、いいだろう」と思ってもらえるかどうかです。

この信頼関係を育て、大きな仕事をなす方法について、安倍晋三元総理は以下のようなことを挙げています。(今年の文藝春秋2月号)

カ 仕事以外の〝無駄かもしれない時間〟を仲間と一緒に過ごすこと
キ 人づきあいを損得勘定で捉えず、他人の話をよく聞くこと
ク 一度信頼して仕事を任せたら、結果が出なくても批評・批判はしない

これができる人が、周囲から信頼・支持を得るのでしょう。
地位も向上し、時が来れば、提案実現も容易になるはず。

日本人のこういう傾向は、社会の安定に大いに資していると考えられます。

「批評・批判はしない」という劣等性・欠陥

もっとも、ク「批評・批判はしない」は問題です。
特に政治においては「劣等性・欠陥」となり得ます。

消費税、プライマリーバランス目標、電力自由化など、明らかに弊害が多く改善すべき事柄であっても触れにくいことになります。「しょうがないよ」の再来です。

問題を解決するには「批評・批判で敵を作る」のを最小限にする必要があります。

うまく調整を図る政治家が求められます。
清濁併せ呑む大きな器、かつ国家・国民のための志を貫ける人です。

「大器と志の政治家」と国民の声

一方で現実の政治家の多くは、国家・国益・公益よりも、自らの立場を重視します。
特定の支持母体の声ばかりを聞き、その代弁者(ロビイスト)となる場合も多そうです。

選挙に落ちれば、政治家はただの人。
立場も収入も社会的影響力もなくなる恐怖がありますから、さもありなんでしょう。

「大器と志の政治家」に期待しつつ、それを後押しする国民が必要です。
国民の声が大きくなるほど、保身重視の政治家も動かざるを得なくなります。

長引く経済停滞、野放図な規制緩和により危機のいや増す状況。
焦りますが、地道に努力を続けるほかありません。

「日本スゴイ」は悪いことか?

「日本スゴイ」「中韓はダメ」という論が流行るのも、鼎談で批判の対象となりました。

自信喪失をごまかし、改善をさぼる

「外国人にほめられる日本」に喜び、「中韓の失敗・欠陥」で溜飲を下げる……
というようなことですが、あまり美しいとは言えません。

我が国の経済停滞・国際的地位低下に伴う自信喪失をごまかし、改善のための努力をしないで済ますものだからです。
鼎談の指摘のとおりでしょう。

失われた「自信」とは何だったか?

もっとも、失われた「自信」とは何だったか?

それはもっぱら、カネと豊かさによるものでした。
昭和から平成の初めごろまでの、経済大国としての自信です。

今も続いてはいますが、当時は欧米礼賛が著しい一方、自虐史観が幅を利かせていました。
そんな中、日本の良さや、先の大戦の意義に触れる機会は稀だったのです。

敗戦後、自国の歴史と文化に対する自信は失われたまま。
残された自信の拠り所は「カネ」だけ。そんな国民も多かったことと思われます。

そのような人々が「カネ」を失った今やっと、あわてて自国本来の良さにすがろうとしているのでしょう。
みっともないと言えばその通り。

「日本スゴイ」自信と誇りは何より大切

しかし、自信と誇りは何より大切です。

反省なければ成長なし、とはその通りですが、
根本的な自信がなければ、反省しても落ち込むだけ。
「どうせダメだ」のあきらめに憑りつかれます。

自信があればこそ、反省が生きるのです。

自国の良いところ、素晴らしい文化、過去の偉人、偉業、世のため人のために尽くす同時代人……
それらをよく知り、自信を持つこと、見習おうとすることは大いに進めるべきです。

また中韓をはじめ、諸外国からの謂われなき非難・バッシングには毅然と反論することも、我が国の誇りを守る大事な仕事と思います。

その意味で、「日本スゴイ」は良い面もあるのです。
ただ、中韓の失敗・欠陥への嘲笑を控え、外国人にほめられるかどうかを気にしないようにはするべきでしょう。

「しょうがないよ」から「やればできる」へ

国家への自信を持つことは、「やればできる」につながります。

また、同胞への信頼にもつながります。
国家的問題を改善する努力が失敗しても、志を継いでくれる者がいるという信頼です。

政治的変革を為す場合、誰かを非難する、顔をつぶすことも起こり得ます。
事を荒立てる「悪」を引き受ける必要も出て来ます。
自らが「悪」として、世間的立場を失うリスクです。

しかし、国家への自信、同胞への信頼があれば、そのリスクを引き受けられます。
国家・公益への責任もあえて取る気になるでしょう。

この自信と信頼を持つ国民を増やすことこそが、現在「劣等・欠陥」と見えている我が国民性を輝かせることになります。迂遠ではありますが、国家の基礎を固めることなのです。

「しょうがないよ」を「やればできる」に変えていきましょう。

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