不穏な状況は見る人が見ればわかろうというものである。与えられた情報がどういう意味を持つのかということを考えることは、大事なことなのである。
『新聞を読みなさい』と言われて育ちました。そこに信頼できない情報が溢れているとは… ネット「新聞が平気で嘘を吐く時代ですから
二元論でモノとみてしまうと、ネットに書いてあることが「すべて」正解だとか、あるいは、朝日、毎日やそれに類するものに反対していればすべて正解だとか、そういう単純なレトリックに引っかかってしまう。上に書かれたことは、なかなか難しいことを言っているのである。自分の頭で考えろ、ということである。新聞にせよ、ネットにせよ、それを信じておけば、正しい道がわかるというものではない。
新聞や、あるいは政府が言うことを解釈するのであれば、例えば、池上彰のような人間の解説を聞いていればいいだろう。それで理解は進むのは確かである。あるいは、新聞の論説委員であったり、ネトウヨのホープ百田氏のいうことを、ふむふむと聞いていればいいのである。それはある意味正しいツールの使い方だと思う。ただし、本当はそこからが大事だということである。彼らの言うことを整理したところからがポイントなのだ。その内容が本当に我々にとって良いことなのか、という判断である。自信を無くして他人任せにしておけばいいという時代ではなくなった、というのが問題の本質だろう。上で、「ネット」といっているのは基本的には、自民党ネットサポーターズの連中の言っていることであり、その方針は、政府の言うことの正当化である。活動方針としてそういう方針だから彼らは忠実にそれをこなしているだけである。要するに彼らのその大きな目的を意識したうえで、言説をくみ取る必要があるのだ。
最近ピケティが書いた論文のタイトルが「バラモン左翼と、商人右翼」というものらしい。
左翼右翼が日本のそれに完全に一致するわけではないが、世界的な傾向が日本のそれに影響していることは確かで、このものの見方は大いに参考になる。このタイトルが示すように、政治運動としての左翼、右翼(日本なら保守派)が言っていることは、庶民の経済とは連動していない。バラモンは聖職者であり、浮世のことからは分離していろいろなことを述べている。商人は、すでに自由が過ぎて己の金もうけのことしか基本的に考えられず、庶民はそのカネもうけの道具としていかにふるまってくれるかがポイントなのである。格差が拡大し多くの人の未来が闇になったとしてもそんなことは関知しない、ということである。そういう既存の政治運動では、庶民の未来は置いてきぼりになっているということを意味している。
国力というのは国の中で生きる国民の働きが国の経済を動かし、あらゆるものを作り出す力である。自然災害に見舞われる日本国土においては、その国力の如何がその行く末を決めるものである。いろいろな理論を持ってくるにしても、それを満たす方針を紡ぎださなければ、それは基本的に間違った方法ということになる。緊縮であっても、社会主義的な方針であってもである。お互いの助け合いがない限りは我々の生活の土台はなしえないのである。そうなったときには、移民の破壊的な増大や、野放図な新自由主義の放置は国の行く末を亡き者にする対応である。その場のいい訳がたったとしてもである。大きな方針、ビジョンが必要であるのはこの間違いを補正するためにある。
なにも守るものがないというビジョンでやってきたわが国は、もう一度守るべきものが、国土であり、国のインフラであり、それを維持する国そのものであり、そのうえで生活する国民であること、国民がそれをする意思を持つことであることを思い出さなければならないのである。