政治的に対話不可能な人々、いわゆるネトウヨやパヨクは、普段から対話できないわけではありません。それどころか普通の、どこにでもいる人の可能性が大いにあります。
これはネトウヨとパヨクという、物江潤氏の著作でも指摘されています。
一体何が人間を、対話不可能な人にするのでしょうか? その構造を探ってみたいと思います。
物江潤氏の著作「ネトウヨとパヨク」に見る、ネトウヨの対話不可能性
物江潤氏はネトウヨやパヨクと、ユニークにも対話を試みようとしました。その結果として物江潤氏は、イデオロギーとネトウヨやパヨクという人種の違いを「対話可能かどうか」で区別します。
つまり対話可能な人々は「保守や革新などの政治思想的立場」です。対話不可能な人々が「ネトウヨやパヨク」というわけ。
この「対話不可能性」は「言葉が通じない」のではなく、論理性が通じない状態です。「Aという事実があり、Bと解釈される。したがってC(結論)が正しいのではないか?」が通じません。
「Aという事実も、Dという事実も、Eという事実もX(結論)につながるはずだ」が対話不可能な人々の論理(?)です。
最終的には「Aという事実すら、必要としなくなる」のだそうです。なぜこのような状態に陥るのでしょう?
「〇〇だから正しい」ではなく「〇〇は正しい」から生まれる絶対正義
正しさは、決定されているものではありません。したがって、状況や事実などから解釈を積み重ねて、正しさを導き出していく必要があります。
しかしネトウヨやパヨクは「〇〇は正しい」という前提条件から入ります。したがって〇〇という結論に沿わない事実は「フェイクニュース、マスメディアの嘘」となり黙殺・否認されます。
もしくは事実を切り貼りして、〇〇という結論に沿うように歪めます。
反原発、安倍政権支持、反日勢力との戦いetc……。
論理的対話ができない人、つまりネトウヨやパヨクは「まず結論ありきな人々」だったのです。
ネトウヨやパヨクは正義のために、今日も活力に満ち溢れる
結論だけが独り歩きしている状態は、どんなことが起こるのでしょう。「結論という前提条件」は、じつは正義感ゆえに生まれることが多いのです。
「日本を蝕む反日勢力にと戦わねば!」
「原発は危険だ! 日本にはどうしても原発を推進したい人たちが存在する! 悪の原発推進派を戦わねば!」
「安倍政権は保守で愛国だ! その安倍政権を批判する、高橋聡とかいうブロガーがいる! こいつは売国奴で反日だ!」
上記は「反日勢力が存在する」「原発は安全には運営不可能」「安倍政権は愛国で保守」という前提条件の世界観から見た景色です。
ネトウヨやパヨクは日本のためと、善意からの活動が多いそうです。
ちなみにヨーロッパに「地獄への道は善意で舗装されている」という、素晴らしいことわざがあります。善意ゆえの悪行ほど、手に負えないものはありません。
ネトウヨやパヨクの「結論という前提条件」は、宗教でいえば神。疑うことすらNGです。神のために善意を持って世界を正そうとする活力は、膨大な量になることでしょう。
しかも「神の敵(単に論理的な反論を含む)」は、ネット上に無限に湧いて出ます。
信仰とは敵が無限であればあるほどに、その活力を高める作用があります。
したがってネトウヨやパヨクの活力も、無限に近いのです。ひどく迷惑な話です。
再部族化・島宇宙・自己強化メカニズムから強固な経路依存性と認識共同体へ
人間は基本的に、自分と同じ主張を心地よく感じます。趣味が同じ人と、仲良くなりやすいのも同じ理由です。
これはネット上の、政治・経済界隈でも起こります。
グローバル化やネットの普及で人々は、原子論的個人に近くなりました。ゆえにアイディンティティを求めて、再部族化しようとします。主張を同じくするコミュニティに入り、入り浸るというわけです。当然、コミュニティは島宇宙化します。
コミュニティの人々は、島宇宙の居心地が良いので島宇宙から基本的には出ません。コミュニティではますます自己強化メカニズムが働き、主張は先鋭化し、強力な経路依存性が働きます。あさま山荘事件と日本赤軍の如くです。
こうして先鋭化し、世間とずれた認識共同体が完成します。
極端な例がネトウヨであり、パヨクです。主流派経済学も全く同様の現象です。
ネトウヨ化しないための3つの方法
現在の政治状況を見るに、保守界隈も左翼界隈も与党も野党も「迷走というにふさわしい」のが現状です。もちろん一部、しっかりしたリベラルや保守も存在します。
本屋や広告で最近は「先行きの見えない時代! だからこそ〇〇を読め!」のようなものが目立ちす。現代ではどうすれば、ネトウヨやパヨクのようにならずに済むのでしょう。
- 状況が変われば主張も結論も変わると心する
- すべての主張も結論も、1つの仮説に過ぎないと心する
- 理論的美しさは、しばしば現実を無視することから生まれると知る
端的に表現して「正しいから正しい」は子供のいいわけと同レベルです。
先日取り上げましたリフレ派経済学者の田中秀臣氏は「リフレ派は20数年前から、財政出動(と金融政策)の重要さを主張していた」などと、さらっと嘘を書きます。
これも「リフレ政策は正しい(=自分が間違っているはずがない)」から出た嘘です。リフレ政策の「絶対正義化」です。
それに対してクルーグマンは、立派と言えます。
我々もクルーグマンのような「間違っていたと知ったら、素直に主張と結論を修正する柔軟さと勇気」を見習いたいものです。
以下は物江潤氏の著作「ネトウヨとパヨク」です。様々な定義がネトウヨやパヨクに対してされる中、筆者は物江潤氏の定義が一番しっくりと来ました。
延々とコメントし続け、延々と執拗に責め続ける「ネトウヨやパヨクの執着性」がどこから来ているのか? 気になる方は、下記の著作でその疑問が氷解するでしょう。
感情に流されないためには、強さも必要ですね。
不安なときほど、自分を否定するの意見を聞き入れられなくなるのが人間だと思うので。
平和な意見交換の場を保つためにも、言論の弱肉強食というか、相手を口汚く罵って論破した方が勝ちのディベートもどきが大流行の風潮はなんとか変わってほしいですね。
ネットの桜を見る会でもありました。
汚い暴言と、逆ギレの応酬。
ウヨサヨ両方が、互いにエスカレート。
相手の意見は、常に間違っている。
まあ、他人の振り見て、自分自信も気を付けないと。
ネトサポ陰謀論に構っている場合じゃないかもと、反省。
_・。)ノ ちらっ。
お邪魔いたしますです。
買いましたですよ。じっくり読むです。
(。△_△。)ノ ボーっと生きてんじゃねーよ!(ピー)
ふざけてないです。
読了して、対極は「チコちゃんに叱られる」かなって思ったです。理由にスポットを当ててるです。
結論だけで知ってるつもりになってる方々へのアンチテーゼになってるのではないか?って。視聴率が高いのは、理由を知ることを求め始めているのではないかとも思ったりしてるです。
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毒親と対話不能な人々。おぼろげながら考えていたことを言い表してもらったと感じてます。毒親なりの正義を踏んづけないようにしながらの対話にするべきだったのだろうって考えにたどり着いたです。