シンポジウム「ポスト・グローバル時代の可能性ーーよりよき世界秩序をどう構想するか」 (令和元年10月26日(土)14時~17時 於:精華学園記念館)に参加しました。 今回はそのまとめをお届けします。
このシンポジウムは、施光恒氏・柴山桂太氏・佐藤慶治氏による科研費研究「世界秩序構想としての「翻訳」の意義に関する政治社会学的研究」の一環として催されたものです。
研究の趣旨
施氏から説明によれば、この研究の趣旨は以下のようなものです。
ここで言う「翻訳」とは、単なる言語の移し替えでなく「文化一般を含むもの」であり、「異なる文化圏で生まれた思想や産物を自分たちの文化圏に適合するよう受け入れて自文化を豊かにしようとする行為」である。
グローバル化時代において人間は、文化から切り離された抽象的なもの、特定の文化や状況から切り離されたもの、自己完結的実体として捉えられている。
このような人間観は、特定の文化慣習、言語から切り離されて自由であることに高い価値を見出すものであり、ボーダーレスな合理的空間の構築とそれへの参加でこそ自由を得られると考える。すなわち、文化を敵視する「反文化」的傾向がある。そのため、合理的なグローバル標準を目指して構造改革を進め、自らの社会をグローバル世界にボーダーレスに結びつけようとする。
ポスト・グローバルの人間観はそれとは対照的である。人間は文化的存在であり、母国語に基礎づけられる。生まれ落ちた状況、環境、文化から離れられるものではなく、むしろそこでこそ自分の能力を発揮して生き生きとできる、自由になれると考える。
ブレグジット、トランプ大統領の就任、黄色いベスト運動等に見られるように、世界中でグローバル化路線は行き詰まっている。そのような現在、ポスト・グローバル化の世界秩序を構想するにあたって鍵となるのが「翻訳」という概念である。
明治日本の国づくりが好例だが、「翻訳」は母語に基礎を置き、他国の文化を自らに合う形に変えて土着化することで、母語・母文化を多様化して各人の思考や選択肢を増大させることができる。
渋沢栄一の思想
続いて中野剛志氏による基調講演「ナショナリズムと資本主義の精神 渋沢栄一の『論語と算盤』」が行われました。
渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれる明治時代の実業家で、次期1万円札の肖像になる人物ですが、強い愛国心と確固たる常識を持っていたようです。本講演によれば、渋沢の人物像および功績は以下のようなものです。
渋沢栄一は生涯で500以上の企業の設立に関わったたいへん創造性に富む(クリエイティブ)な人物であった。
彼の精神の基礎にあったのは論語である。論語、儒学と言っても、江戸幕府の正式な学問であった朱子学ではない。
彼が拠ったのは、伊藤仁斎、山鹿素行らの「古学」や後期水戸学に連なる実践尊重の論語。日常や常識の中にこそ聖人の道がある、それが孔子の説いた道だと主張するものであった。知行合一の実践的、プラグマティックな学問であり、渋沢はそれを自らの時代に合わせて活用した。
また、水戸学と言えば尊皇攘夷思想でもある。渋沢栄一はプラグマティストのナショナリストであり、彼自身が書き残しているが、生涯にわたって忠君愛国思想の持主だった。
論語の民主化とナショナリズム
『論語と算盤』を著したことでもわかるように、渋沢は伊藤仁斎と同じく、論語を一般庶民にもアクセス可能にした。これは江戸時代に支配階級のものであった論語を民主化したとも言える。
論語はそもそも政治経済論であり、これが民主されたことはすなわち、一般庶民が政治経済を語れるようになったということである。しかも、母国語/日本語で議論するわけで、「論語の民主化」はリベラル・ナショナリズム成立の一助として、国民国家建設に役立ったと考えられる。
渋沢は人生観には二種類あると言った。主観的人生観と客観的人生観である。前者は個人主義的、競争主義的で自己のために社会を犠牲にし得るものであり、警戒すべきもの。
後者は社会を重視して自我を滅却する。とはいえ一見矛盾するようであるが、人間というのはそもそも社会的存在であって、自我滅却は結局のところ個人の充実を導く。すなわち客観的人生観は主観的人生観をも総合しつつ向上する。この人生観は「国民は国家の一員」という意識、ナショナリズムにつながる。
渋沢はナショナリズムを重視し、個人主義を大いに警戒したが、この時代(19世紀後半~20世紀初期)には西洋でも個人主義への批判、疑問が提示されている。例としてはセオドア・ルーズベルト(米)、フランシス・ハーバート・ブラッドリー(英)が挙げられる。
(『忠義の哲学/ Philosophy of Loyality』のジョサイア・ロイスもその一員だと思われます。ブラッドリーもロイスもヘーゲルの影響が大きいようです)
論語で考えた権利義務論
渋沢の考えは欧米での個人主義克服思想・ヘーゲル主義に通じるものである。
とはいえ、渋沢の基本は、古学のプラグマティズムと水戸学のナショナリズム。土着の政治言語として論語を民主化して国民統合を目指したわけだが、西洋由来の権利義務論を考える・翻訳するにあたっても論語主義を貫いた。(「己の欲せざるところを人に施すなかれ」は東洋流の権利義務思想である!)
彼が見出したのは個別主義の権利概念。権利の根拠はそれぞれの国家と国民であって、祖先から受け継ぐもの、という考えである。そして国民は義務として忠君愛国の念が篤くなければならない。
これは普遍主義、天賦人権論を拒否するもので、バークらの西洋保守思想に通じる。もちろん、現代にも通用する。
渋沢の行った翻訳は、まさにこのシンポジウムのテーマの「翻訳」であり、単なる言葉の移し替えではない。それどころか概念を創造するものである。この点においても渋沢は創造的/クリエイティブであった。
新自由主義は創造性を奪う
この後、柴山桂太氏から新自由主義とグローバル化がもたらす諸問題や現状についての発題を経て、施光恒氏、中野剛志氏、柴山桂太氏、佐藤慶治氏の4氏によるパネル・ディスカッション。
世界を没落に向かわせる新自由主義をどう克服するか、の討論でしたが、まとめると以下のような感じです。
現在はポピュリズムが新自由主義を批判する勢力のように言われる。しかし3、40年前、新自由主義の台頭にあたって、それを主導したのは「ポピュリズム」と言われたレーガン、サッチャー、小泉のような人たちだった。必ずしもエリート主導だったとは言い切れない。「痛み」を受ける大衆の支持を得て、新自由主義は力を得た。
これは、人々が複雑な事柄について考える力を失いつつあるせいなのではないか。そのような長期的傾向があるとすれば、新自由主義からの脱却など、本当にできるのか?
新自由主義は何かを創る積極的なものではなく、何かを除去する、廃止する、破壊する消極的なものである。何かをなくしさえすれば良いものが生まれるという発想で、これすなわち創造性のない思想とも言える。
もちろん技術的な新しいものは自動運転やAIなど、現代でも産み出されてはいる。何を以て創造性と見るか、という問題はあるが、日本全体を見れば、新自由主義が流行るほど経済成長率は停滞するのが事実。マクロ的には創造性を発揮できていないのは明らかである。
創造性を回復できるか?
新自由主義の克服には創造性の回復が不可欠である。創造とはゼロから何かを創り出すことのように思われがちだが、実は違う。
すでにあるものに少しずつ加えることでしか人間は「創造」できない。古いものと新しい時代の折り合いをつけようとするところに、創造が起こる。これすなわち、本シンポジウムで言うところの「翻訳」であるとも言える。
だがそれも、原子論的個人では無理である。社会環境・周辺環境と共に行うものである。集団で学び合い、力を合わせる時にこそ、創造が成し遂げられる場合が多い。
このような創造を国全体で行って、危機の時代を乗り切った経験が我が国にはある。尊皇攘夷、そしてナショナリズムを原動力に、明治時代の日本は大いに創造性を発揮した。 この経験に大いに学ぶべきである。
もっとも、現代人の「複雑な事柄について考える力を失いつつある傾向」からすれば、事態はまったく楽観できない。中間層の力が落ちて、創造力が減退している上、将来の中間層育成の大きなカギを握る児童文学の退嬰を見ると、創造性喪失の負の連鎖があると思える。
ポストグローバル化にはまだまだ時間がかかる。グローバル化・新自由主義のしつこさは「古い換気扇の油汚れ」同様、頑として除去できない。あきらめずにがんばっていきましょう。
以上がシンポジウムのまとめです。
個人的には「新自由主義の克服には創造性の回復」「古いものと新しい時代の折り合いをつけようとするところに、創造が起こる」というところに力をもらいました。ジョサイア・ロイス、ラドヤード・キプリング、そして杉本五郎、先人たちの遺した著作を翻訳したり解釈したりするのも意味があるのだな、と。地道にがんばっていきたいと思います。
佐藤慶治氏?佐藤健志氏では?
精華女子短期大学講師の佐藤慶治氏です。健志氏はダンサーですが、慶治氏は声楽家でもあります。
明治期の翻訳唱歌(蛍の光とか)の研究をされていて、近々著書を出版予定だそうです。