読者さんにお勧めされて、ガッチャマンクラウズインサイトを見ました。なんでも、全体主義を強烈に描き出したアニメだとか。本当?
本当でした。下手なゾンビものより、恐怖ガンガン。全体主義怖い。
しかも制作側、本気。物語中に「サル」という単語が出てきます。このアニメ、現実の「サル」は普通に楽しんで終わりでは? という作り方をしてます。
「ホラーとして見ることができるのは、サル以外だぜ?」
こんな制作側の言葉が、聞こえてきそうです。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ガッチャマンクラウズインサイトのレビュー
ネタバレもマズイですから、物語の端緒のみご紹介します。
花火職人の孫、つばさという女子の家の近くに宇宙船が落ちます。中からはゲルちゃんという、可愛らしい宇宙人が出てきます。
アニメ展開でつばさはガッチャマンに選ばれ、ゲルちゃんと「心を1つに」をテーマに総理大臣に立候補!
首相公選制、スマホ投票の世界観。さらに宇宙人の特殊能力と「心を1つに」というテーマ。
空気に流される原子論的個人な大衆。
これで全体主義に、ならないわけがない(笑)
見事に「大衆はあっちにこっちに、手のひらを返す」を描ききった傑作です。
最後はヒーロー物らしく終わりますが、9話目あたりでガクブルでした。
全体主義とは? ハンナ・アーレントに学ぶ
まず全体主義の特徴をあげます。
- どのようなイデオロギーとも、合わされる。たとえ自由主義であろうとも
- 無思想性が、全体主義の特徴
- 空気に流され、思考停止になる――アーレントは、悪の凡庸さと表現――
- 最終的に、破滅的な結末を迎える
全体主義とは、いじめの構造と似ています。
芸能人が不倫をした、政治家のスキャンダル、芸人の交通事故etc……。社会は一斉に彼らを叩きます。
3ヶ月後に、叩いた内容を覚えている人います? いませんよね。だって「ノリ」なんですから。
炎上している中で「え? ここまで叩くこと? おかしない?」と空気を読まずに、異議申し立てをしたとします。大抵は無視されるか、ひどければ叩かれる側にウェルカムです。
プチ全体主義です。
叩いている人は「ノリ」なので、深く考えてません。思考停止です。みんなと一緒は「キモチイイ」のです。
ハンナ・アーレントの描き出した全体主義は、日本に当てはめるとこんな感じです。
大衆人と全体主義の親和性、ないし日本政治の隠れた全体主義
全体主義者というイデオロギーは、存在しません。なぜなら全体主義とは、現象だからです。全体主義という現象は、どのイデオロギーでも起こりえます。
例えば――新自由主義・全体主義だってありうるのです。実際の例を、ご紹介します。
日本では長年、プライマリー・バランスは重視されてきました。「借金は良くない! 国の借金も返さなきゃ!」というわけ。
10年前に「国債発行はいくらでもできる!」と主張したら、プライマリー・バランス厨にボコボコです。(2ちゃんねるでの、経験談です)
今でも大半の日本人は「国も借金で大変だから……消費税増税も『仕方ない』」と思っています。
思考停止の全体主義以外の、何ものでもありません。
オルテガは大衆人という言葉を使います。西部邁によれば、大量人が正しい訳し方だそうです。
大衆人は無謬であり、無謬ゆえに思考停止しています。
トクヴィルは、多数の専制を恐れました。大量の大衆人による、民主主義の専制です。
ガッチャマンクラウズインサイトでは上記をまとめて、「サル」と呼称します。
サルと全体主義は親和性が高い、と描き出します。
なるほど。緊縮財政・全体主義はサルの仕業だったのです。ウッキー!
ハンナ・アーレントとパスカルの言葉
アーレントはエルサレムのアイヒマンという著書で、以下のように書きます。
世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。
思考停止して、空気を読んで合わせるだけ。これをハンナ・アーレントは「人間であることを拒絶した者」とさえ言います。
アーレントによれば、思考停止は「悪」です。
フランスの偉大な17世紀の哲学者、パスカルは言います。
「L’homme est un roseau pensant.」(人間は考える葦である)
思考停止とは「人間であることを拒絶した者」という、アーレントの言は正しいのです。
そして思考停止から、全体主義は生まれます。どのような「正しいイデオロギー」であれ。
ちなみにガッチャマンクラウズインサイト。主人公はつばさではなく、一ノ瀬はじめです(ネタバレ)
>全体主義者というイデオロギーは、存在しません。なぜなら全体主義とは、現象だからです。全体主義という現象は、どのイデオロギーでも起こりえます。
全く仰る通りで、全体主義の例として必ず引き合いに出されるナチズムはイデオロギーと呼べる性格のものではないといえます。あのヒトラーは、巧みなプロパガンダを駆使し、ヴェルサイユ条約下のドイツの大衆のうちにあったルサンチマンに火をつけることによって権力を奪取した。そういう意味で、全体主義という現象は、「扇動する側(独裁者)と扇動される側(大衆)が一体となり拡大していく純粋な大衆運動である」ということになるでしょう。
>そして思考停止から、全体主義は生まれます。どのような「正しいイデオロギー」であれ。
そもそも思考を停止するからイデオロギーが必要になるのであり、逆に言えば、イデオロギーは思考を停止させるともいえます。そして、近代イデオロギーとしていまや”常識化”されてしまったのが、いわゆる「進歩史観」と「自由平等原理」ですね。
そうなると、全体主義の背景にある「大衆の思考停止状態」から脱却するには、脱イデオロギーか、少なくともイデオロギーを常に警戒する姿勢(これこそが、先日のテーマであった保守主義)が必要です。結局のところ、このイデオロギーを常に警戒し、大衆から失われつつある常識(歴史・伝統・文化・慣習)を取り戻す運動としての保守主義が重要になる。
と、言葉で言うのは簡単ですが、現代日本社会において、この”真の意味での保守”を唱える言論はごく僅か(単なる自称保守ないし似非保守は腐るほどいる)。というか、明治維新以来の我が国において、国粋主義・超国家主義的なナショナリズムが支配的となることはあっても、真の意味での保守思想が根付くことは全くなかったことを考えると、結構、絶望的な感じがします。
丸山眞男はかつて公演で「保守するものの中に、革新を埋め込む」と言ったそうです。
進歩史観の常識化はまさに、それですよね。
他にも資本主義、憲法9条と平和主義なども、それに当たるかなと。
>明治維新以来の我が国において、国粋主義・超国家主義的なナショナリズムが支配的となることはあっても、真の意味での保守思想が根付くことは全くなかったことを考えると、結構、絶望的な感じがします。
明治維新自体が「革新であった」という事情もありますから。
それでも明治では「和魂洋才」と言われましたが、今は「無魂従属」でしょうか(笑) 笑い事でもないですが、無力な個人がどうにかできることでもありません。
笑うしかないかなと。