財政赤字に問題がない、というのは財政拡大派のコンセンサスでしょう。おっと! 現代貨幣理論(MMT)嫌いのあなたも、閉じないでください(汗)
ずっと疑問でした。なぜ「自国通貨建てだから」という議論は広まらず、現代貨幣理論(MMT)がこれだけ報道されるのか。良くも悪くも、広まるのか。
かなり考えましたが、ようやく私なりの理論立てと分析ができました。
MMTerの方は現代貨幣理論(MMT)の、理解を深めるために役に立つでしょう。
現代貨幣理論(MMT)嫌いの方は、私の命題の提示に対して思考するでしょう。
構成(プロット)だけで4時間かかっております。ぜひとも最後までお付き合いください。
8時間(T_T) 理論建てまで考えると、もっと膨大に(笑)
ケインズとイネス、ないし機能的財政論の前提貨幣観
イネスとケインズの貨幣論という論文があります。端的にいえば「ケインズは信用貨幣論の立場だった。それはA・ミッチェル・イネスに、多大な影響を受けたから」が要旨です。
イネスももちろん、信用貨幣論です。
ケインズは、G.F.クナップの貨幣国定説も支持していました。
ケインズ学派の1人であるアバ・ラーナーも、当然イネスとクナップの貨幣観を受け継ぎます。
したがってラーナーの、機能的財政論の前提である「自国通貨建てなら、国債発行はインフレ制約しかない。国債発行額やプライマリーバランスには制約されない」は、信用貨幣論と貨幣国定説を根拠としたのです。
しかし現代の機能的財政論者、ないしケインズ論者のほとんどは「貨幣観までは理解してない」のでは? と思われます。
そうだとすると、問題です。貨幣観から財政政策までの、一貫した経済理論にならないからです。
一般的な機能的財政論の理解から、さらに議論を深めてみます。
財政赤字に問題はないのはなぜか?という問題
本題に入りましょう。「財政赤字に問題はない!」と主張する場合、「自国通貨建てだからだ!」となります。
では「なぜ円は、自国通貨なの? 通貨はどうして、通貨として受け入れられるの?」と聞かれたら? あなたならどう答えますか?
2つ考えられます。
- 日本(政府)が円を自国通貨と決めたからだ
- みんなが円を通貨と認識しているからだ
2.は論理的に問題です。この答えでは問に「みんなが(受け入れられている)通貨と思っているから、通貨として受け入れられるんだ」となります。トートロジーです。
訳すると「お金はお金だから、お金なんだ」になります。
これでは新古典派経済学のいう「通貨の信認」です。逆説的に「通貨と思わなくなったら(信任がなくなったら)通貨ではなくなる」となります。
蛇足ですが、新古典派経済学は「通貨の信認」というあやふやなものを、通貨の根拠にしているのでインフレが怖いのです。インフレ=通貨価値の下落ですから。
積極財政でデフレ脱却! と唱えるなら、上記の論拠は棄却しないと矛盾が生じます。
つまり1.の「日本政府が円を通貨と決めたから」しか選択肢はありません。
では政府が通貨を駆動する権力はなにか? 徴税権です。「納税で円以外は受け取らない!」という制度です。
これはクナップの貨幣国定説と酷似してます。現代貨幣理論(MMT)の租税貨幣論は、貨幣国定説の発展形だったのです。
共同体が”通貨”と定め、強制力を持って使用させるものが”通貨”になるのです。
信用創造を否定すると、政府は国債を発行できなくなる
「自国通貨建て国債だから、いくらでも発行は可能」という論の、通貨の部分は解決しました。
しかしもう1つ問題が残ってます。「銀行に預金がないと、お金は借りられないのかどうか?」です。またも2つ提示します。
- 借り入れることによって、銀行預金が”生まれる”
- ”銀行が保有している金額(預金)しか”借りられない
2.だとすると「銀行が(誰かから預けられて)預金を拡大しなかったら、政府は財政出動ができなくなる」と帰結します。国民の預金額が、政府の国債発行額の限界論も、2.から来ています。
三橋貴明さんのいう「お金のプールがある=主流派経済学的貨幣観」です。
2.は表現を変えれば主流派経済学の「財政出動をしたら、民間融資を圧迫する。民間資金を圧迫する」です。なぜなら「預金(という限定的なプール)から融資をしている」からです。
蛇足ですが、リフレ派の主張は「だから金融緩和でプールを拡大したら、(圧迫されていた)民間融資が増える(はず)」でした。
中央銀行の借り手は、政府だけです。市中銀行の借り手は民間です。借り手の違いと、現金発行権以外は、中央銀行も市中銀行も機能的には大差ありません。
「国民の預金額以上の、国債は発行できない論」は2.によって生まれるのです。
「借り入れる=資金需要(民間需要) or 政府需要」よって、預金ないし貨幣が生まれるじゃないと「国債発行はインフレにのみ制約される」という理論は主張できないのです。
政府が借りることによって、貨幣が生み出されるのです。国債発行=借り入れ=需要創出→(銀行の)信用創造=預金が生まれる、だったのです。
民間では「国債発行」の部分が「借用書」になります。
なぜ政府だけ、国債発行をインフレ制約以外で拡大し続けられるの?
通貨発行権→通貨はなぜ通貨なのか→徴税権で通貨で納税しないといけないから→政府権力の行使で”通貨”発行権は維持されている。
企業や個人は通貨を発行できません。したがって、通貨発行権=徴税権を有する政府は負債を拡大し続けられる、という理論建てとなります。
そして「借りると、預金が創出される(信用創造)」によって「財政赤字の拡大は、預金額に依存しない」のです。
こうしてようやく「インフレ制約にかからない限り、自国通貨であれば財政赤字は無限に拡大できる」という機能的財政論が、理論として一貫します。
「現代貨幣理論(MMT)の信用創造はデタラメ!」「現代貨幣理論(MMT)の租税貨幣論はデタラメ!」と否定してしまうと、「機能的財政論の否定」「財政赤字容認論の否定」に帰結するのです。
すなわち、理論的帰結としては新古典派経済学にいきつきます。
負債=貨幣は信用貨幣論。否定して貨幣=◯◯を定義してみよう
信用貨幣論とは貨幣負債論です。(銀行の債権、借り手に対する)信用は、(国家や企業・個人などの)借り手の負債です。
国家は自国通貨建て国債である限り、破綻しないという信用=国債という負債を拡大し続けられる、になります。
借り手に信用がある限り、負債は拡大し続けられるのです。そして銀行は、貨幣を創出(貸出)し続けられるのです。
したがって貨幣=負債になります。負債がないと、貨幣は生まれません。
「誰かの負債=誰かの資産」にも繋がります。
では貨幣=負債ではないと仮定してみましょう。「貨幣とはなにか?」という問いが生まれます。「貨幣=◯◯」の右辺を埋めねばなりません。
貨幣=労働の成果、と仮定します。では「労働したら、貨幣が生まれる」のでしょうか? 一生懸命家事をしても、私には貨幣は生まれませんが皆様はいかがでしょう? 生まれませんね。
現実はモンスターを狩ったり何かをしたら、貨幣がドロップする世界ではありません。
では貨幣=(発行した側の)資産と仮定してみます。
日銀が現金を刷ったら、それは”資産”でしょうか? バランスシートの概念が崩壊します。
また「誰かの負債=誰かの資産」という概念も崩壊します。
貨幣は単なる価値の交換手段という論もあります。
国債を発行して、日銀の貨幣と交換します。では何を政府は交換したのですか? 答えは「信用」です。
市中銀行は融資の際に、企業と「何を」交換してるのでしょう? 返済能力=信用でしょう。
つまり銀行の資産側の債権は、信用によって支えられます。負債側の銀行によって創造された、企業の預金(融資によって発生した貨幣)は銀行の負債です。
※銀行にとって預金=負債です。
政府と日銀でも一緒です。貨幣=負債=信用貨幣論は「誰かの負債=誰かの資産」を肯定するものです。
つまり「誰かが負債を拡大=需要創出しないと、経済が拡大しない」「したがって破綻しない政府が負債を拡大する」という筋道になります。
信用貨幣論=貨幣負債論の否定もまた、機能的財政論や積極財政論の否定に帰結するのです。
積極財政派の現代貨幣理論(MMT)批判は理論的にはナンセンス
機能的財政論は「自国通貨建て国債だから大丈夫」の一言で済みます。楽です。私もそう思います。
しかし理論的には、貨幣が説明できていません。機能的財政論の貨幣と金融への説明が、現代貨幣理論(MMT)です。
機能的財政論の前提の、クナップやイネスといった貨幣観の統合理論が、現代貨幣理論(MMT)なのです。
現代貨幣理論(MMT)は、機能的財政論以前の貨幣観の「再発見と統合」と表現できます。そして機能的財政論と「再接合」されたので、MMTerは機能的財政論を支持するのです。
現代貨幣理論(MMT)以外で、機能的財政論の貨幣観を説明できる理論に、私はお目にかかったことがありません。あるならご提示いただけたらありがたいです。
※俺の独自理論、というのはいらないです。誰々(経済学史に名前がある人)の〇〇の解釈、などでお願いします。
はっきり申し上げます。機能的財政論”のみ”だと、説明も理解もしやすいのです。その分、有識者は相手にしません。なぜなら「理論的背景(の理論=貨幣理論)が説明できてないから」です。
※最初に申し上げたとおり、ラーナーやケインズはイネスやクナップの貨幣観にたっています。
機能的財政論を主軸とした積極財政議論より、現代貨幣理論(MMT)が報じられる。これはなぜか? 機能的財政論に脅威を感じなかった主流派経済学が、なぜ現代貨幣理論(MMT)を猛烈に批判するのか?
機能的財政論だけなら、相手にしないで終わりです。現代貨幣理論(MMT)が関わってくると、一笑に付せないのです。
主流派経済学の理論的背景(商品貨幣論、外生的貨幣供給論)が、総崩れしかねないからです。
これが「毎日、現代貨幣理論(MMT)が報道される」理由でではないでしょうか?
現代貨幣理論(MMT)を得ることで、積極財政派はようやく主流派経済学と同じ土俵に上がったのです。勝負可能になりました。
だからこそ三橋貴明さんなどは「コペルニクス的転換」と、現代貨幣理論(MMT)を評します。
自身の覚えた、理論のバージョンアップは大変です。批判というか拒否をするのは楽です。
積極財政を訴えたいなら、説得力を持たせるためにも現代貨幣理論(MMT)は必須かと思います。
私は新自由主義批判をします。新古典派経済学の主な理論を理解しているからです。本来、理論への批判は「その理論を理解しないとできない」のです。
理論以外も、批判するにはその物事を理解せねばなりません。
批判とは「良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること(コトバンク)」です。物事を知らねば、批判は不可能です。
拒否は「知らなくても可能」です。消費税を論じられなくても、消費税が嫌だと「拒否すること」は可能なのです。これは悪いことでも何でもありません。
しかし世の中、「拒否」と「批判」の区別が曖昧すぎると思います。
皆様に聞きます。「安倍政権批判」は、安倍政権をある程度理解してないとできないですよね?
現代貨幣理論(MMT)批判も、現代貨幣理論(MMT)を理解してからで遅くはありません。
現代貨幣理論(MMT)の理解の一助として、中野剛志さんの「奇跡の経済教室」がおすすめです。
またウォーレン・モズラーのMMT(現代金融理論)のエッセンス! ウオーレン・モズラー「命取りに無邪気な嘘 1/7」 – 道草も、非常にわかりやすいと思います。
書き上げるのに時間がかかった割に、拙い稿になっております。どうぞご容赦ください。