グローバリズムの弊害が露わになり、その対抗馬であるナショナリズムが見直されています。我が国において、ナショナリズムによるグローバリズム克服は可能でしょうか。わかりやすく考えてみます。
ナショナリズムとグローバリズム
グローバリズムの行き過ぎ、弊害が露わになると共に、ナショナリズムに注目が集まっています。
それぞれの定義
ナショナリズムとは、国家主義・国民主義です。
国民のまとまりである国家の独立と発展を求めるもの。
「それぞれの国で自立してがんばりましょう!」主義。
グローバリズムとは、地球主義です。
国家の枠、地域の独自性を越えて共通の制度やシステムを作ろうというもの。
「国境をなくし、一つになっていきましょう!」主義。
ナショナリズムの時代
19世紀から20世紀前半にかけて、ナショナリズムは善いものでした。
近代化と共に、国家同士の争いが国家全体の力を傾注する総力戦の時代となったからです。
一般国民が兵となり、後に残る者も生産活動に尽力、国民一丸となる必要があるのですから、当然と言えましょう。愛国心・祖国愛(パトリオティズム)も大切にされました。
しかし、20世紀後半から状況は一変。
二度の世界大戦で多大な犠牲が出たことから、ナショナリズムは危険視されるようになります。
「国家のために、とがんばった結果、大事な人たちが死んだじゃないか!」というわけです。
愛国心という言葉にも「軍歌の響が~」というイメージが付与されてしまいました。
グローバリズムの時代
ナショナリズムの政府すなわち国民国家の政府は、国家の利益のために戦争をする、悪いことをする。国境を無くし、共通の政府や制度が統治する方がいいのではないか。
そういう気分が広がり、20世紀後半から現在まで、グローバリズムが世界を席捲していきます。
国連の影響力増大、国境を越えた人・モノ・カネの自由化、EUの誕生など。
さらに、国家の壁が低くなり、グローバル企業が世界中で荒稼ぎするようになりました。
政府はと言えば、そんなグローバル企業の利益のため動き、規制改革、法改正までする始末。
グローバリズムの害
しかしこの状況。一般の人々にとってはどうか。
戦争で死ななくなったのと引き換えに得たものと言えば、
●賃金の安い他国に工場が移され、仕事を失う
●移民が増え、慣れ親しんだ町の様子が変わってしまう
●金持ちは豊かになり、中間層が没落、格差が拡大する
●自分の国のことを、自分たちで決められない
●カネを最高の価値基準とする個人主義が広がる
何かおかしい、と思って当然です。
そこで再注目されているのがナショナリズム、国民主義。
ナショナリズムは助け合いの心
ナショナリズムとは実のところ、仲間意識、助け合いの心でもあります。
戦争の際に重視されたのは確かですが、ナショナリズム自体が戦争を起こすわけではありません。
また、上記のようなグローバリズムの弊害は個人ではどうにもできません。
加えて、日本の場合は特にそうですが、自然災害の脅威に対してはカネも個人の権利も役に立たないのです。「国民」「同胞」としての仲間意識、助け合いが必須となります。
想像の共同体
一方で、ナショナリズムの実体である「国民国家」は「想像の共同体」とも言われます。
国民を次のように定義する ことにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの(最高の意思決定主体)として想像されると。
[ベネディクト・アンダーソン著、白石隆/白石さや訳『想像の共同体』序より]
国民は(イメージとして心の中に)想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同のコミユニオンのイメージが生きているからである。
現状の我が国民において、そのような確固たるイメージがあるかというと、かなりあやしいでしょう。
グローバリズムで「人でなしの国」へ
毘沙門/門前小僧さんの「ナショナリズム考」でも考察されていますが、
グローバリズムは、現実の共同体に付きものである、面倒な人間関係から私たちを解放してくれるものです。
(人間関係のトラブルほど、私たちを疲れさせるものはないでしょう……)
グローバリズム、すなわちヒト・モノ・カネの“移動の自由”をもたらすこのイデオロギーは、人間という生物を人間関係という束縛から解放してくれる、いわば麻薬のような思想である。
門前小僧、習わぬ今日を読む「ナショナリズム考」
これは即ち、人間を共同体という単位から個人という単位に分解する作用を持つ。
夏目漱石は『草枕』において、
「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
と言いましたが、まさに言い得て妙。
人間関係から解放されたグローバリズムの世は、なお住みにくい。
自分と身近な仲間だけが大事
「人でなしの国」的環境において日本人という意識はあるにしても、実際には自分と身近な仲間だけを大切に考え、ひたすらうまく生き延びようとする。
そんな人が多くなっているのだと思います。
同じ日本人が金メダルを取ったり、ノーベル賞を取ったり、困った人びとを助けたりした場合。
それ自体はもちろん善いことですが、そう聞いてただ誇らしく思ったり喜んだりすることは、個人の自意識への慰めに過ぎません。
(慰めというのは大切な精神作用ではありますが)
こういう気持ちをナショナリズム(国民意識・国民主義)と言うのは過大評価でしょう。
「ぷちナショナリズム」とはうまく言ったものです。
自らを「日本代表」と任じる「国民」
面倒な人間関係を忌避しつつ、場の空気を壊したり、冷たい目で見られたりしない範囲で、「日本人」を意識する。
そんな多くの人々にとって、「主権的なもの」は自分に関係ないものと感じられることでしょう。
政府や国会はもちろん、市議会ですら、己のあずかり知らぬところとなります。
お上が勝手に決めたことに、不平を言いつつ従うばかりです。
これではグローバリズムを克服するナショナリズムは成立しません。
自らが「最高の意思決定主体」であることを意識する「国民」が必要です。
すなわち、微力ながらも自らを「日本代表」の一人と任じる者。
「国民」の少なさ
この「進撃の庶民」をご覧になる方の多くは自ら「国民」であろうとする方々だと思いますが、その数はまだまだ少ない。
「国民」「日本代表」であろうとしても、数が少なければ実際には無力なものです。
体感的な数字で恐縮ですが、「国民」はわずか数%。
あとの国民はグローバリズムの個人主義者、国家忌避の共産主義者、そして大半の日和見の「ぷちナショナリズム」な人々です。
「国民」を増やすには/ナショナリズムの方法
日和見の人々をできるだけ多く、「国民」側に引き込むしか、ナショナリズムはうまくいきません。
では、その方法は……
ア リアルな人間関係において、面倒をいとわずにナショナリズムの考えを広める
イ ウェブ、SNSにおいて持論を述べたり、議論したりする
ウ 政治家など、影響力のある人に意見を届け、彼らを通じて世論に訴える
以上が主なものと思われますが、いずれにしても「無理強い」は禁物です。
聞きたいとも知りたいとも思っていない相手を、正論で直に説得するのは困難を極めます。
わかってほしい相手に受け入れられないのは辛いですが、焦らず待つこと、興味を持ってもらえるチャンスを多く作ることが大事だろうと思います。
急がば回れで、特定の相手にこだわるよりも、より多くの人々に周知する方が効率的です。
そうすることで「国民」が増えれば、わかってくれない相手も含め国民すべてがナショナリズムの恩恵に浴することとなるはずです。
「国民」としてどういう政策を求め、世論に説くべきか?
それは「進撃の庶民」の記事をお読みいただければ、自ずと見えてきます。
皆様の御協力を祈念いたします。
トップ写真:fragments of nationalism by info image seek
>人間関係から解放されたグローバリズムの世は、なお住みにくい。
ああ、まあ、外国行って成功するような人は、そもそもその人自身のコミュニケーション能力がかなり高い人でしょうね・・。
人付き合いが煩わしくて外国行くような人は、つまりは平時からそのくらいのコミュニケーション能力なわけですから、どの道外国でも苦労するでしょうね・・。
(人づきあいをリセットしたいだけなら、まだ言葉の通じる日本国内での引っ越しの方が楽かも・・)
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>わかってほしい相手に受け入れられないのは辛いですが、焦らず待つこと、興味を持ってもらえるチャンスを多く作ることが大事だろうと思います。
>急がば回れで、特定の相手にこだわるよりも、より多くの人々に周知する方が効率的です。
あんまりごちゃごちゃ言うと、反発されて、しかもその相手がちょっと意固地だったりするとプライドが邪魔して聞く耳シャットダウンされますからね・・・。
ちょっと前にここのコメ欄にも紹介しましたけど、《インテリジェンストラップ》ってやつにひっかかる人もいますし・・・。
SNSの場だとか、実生活だとかでも、サブリミナル効果レベルで少しずつ、それでいて幾度となく何度も刷り込むレベルじゃないと、なかなか難しいと思いますね・・。
SNSに意見書き込もうなんて人は、そもそもその人が最初から人角に意識高い人が多いですから、そういう場では相手を意固地にさせないための言葉選びも大事になるのかもしれませんね・・。
ただ最近知り合いに、この国がいかに不景気になってるかを商業施設に入っている商品の、全体的な品質低下の説明(・・大規模商業施設に入っていたテナントが一度撤退して、そのあとに別のテナントが入ったあとの商品の質の変化とかの話し・・)で理解してもらえましたから、ちょっとずつ刷り込み続けるのも大事だなと思いました。
ただし、最近は、進撃さんや、三橋さん達の活躍もあって、各所のSNS上でも財政出動の意見をちらほら見るようになってきましたので、かすかながらでも変化の兆しを感じる時も、幾分かあります、ね・・。
>サブリミナル効果レベルで少しずつ、それでいて幾度となく何度も刷り込むレベルじゃないと
やっぱりそれが大事ですね。「何か聞いたことある」→「ほかの人もそう言っている」→「みんな知っているみたいだ」→「これは信じて大丈夫そうだ」というようなプロセスで認識を改める人は多そうです。