“1円玉を造るのに3円掛かるって知ってる?”
これは、東急リバブルのCMでお父さん役の山口智充さんが子供に蘊蓄を話すシーンで使われるセリフです。
同社のCMは、アイフルのCMと並んで、長らくシリーズ化されている割に世間の話題にもならずネットでバズることもない、いわば滑りっぱなしの冴えないCMです。
制作サイドは気の利いたことを言ってるつもりなんでしょうが、制作陣がドヤるほど受け手側の視聴者の心に響いていないようです。
冒頭のセリフも、「貨幣を造るのはコストが掛かる」、「貨幣増産は国民に大きな負担を強いる」という印象を与え、貨幣の本質に対する誤解を招きかねません。
貨幣に対する正しい認識が広がるよう、山口さんのセリフを
“1万円札を造るのに17円しか掛からないって知ってる?”
“ついでにデジタルマネーならコストゼロだって知ってる?”
と変えて欲しいですね。
さて、本稿では、江戸幕府開闢から90年ほど後の元禄期に革命的ともいえる『貨幣改鋳』により、世界的に有名なケインズやクナップより200年以上も前に貨幣国定説や管理通貨制度を実践し、貨幣の本質を世に問うた勘定奉行 荻原重秀の偉業を綴ったコラムを紹介します。
『江戸のMMT? 元禄バブルの“元凶”貨幣改鋳は悪手だったのか』
(大崎巧/Bagel X代表取締役)
「「なんでもやる」
この一言は、新型コロナウイルスの世界的まん延というパンデミックのさなかにあった2020年3月、FRB(米連邦準備理事会)議長であるジェローム・パウエル氏から発せられた言葉だ。この言葉を契機に、未曽有の危機によって混乱を極めていた金融市場は落ち着きを取り戻した。彼の言葉は、政策責任者による果断なコミットメントを約束する力強いメッセージとなり、市場参加者に安心感を与えた。(略)
さて、日本の歴史をひもといてみると、驚くべきことに文字通り「なんでもやった」政策責任者が過去に存在している。
そのときのなんでもやる政策は、「やり過ぎ」を招き、ハイパーインフレを伴うバブルを生み出してしまった。そのバブルこそが、「元禄バブル」だ。元禄バブルは、これまで紹介した資産バブルとは大きく性質が異なる。18世紀英国で起きた南海泡沫(ほうまつ)事件も19世紀の日本で起きたウサギバブルも特定の資産の価値が急騰し、その後はじけた「資産バブル」なのに対し、元禄バブルは徳川幕府によって引き起こされた「経済バブル」である。
元禄バブルの主人公は荻原重秀(1658~1713年)。勘定方(幕府の財政をつかさどる役所)のトップである勘定奉行だ。徳川綱吉(1646~1709年)および徳川家宣(1662~1712年)に仕えた。勘定方役人としての重秀の功績は研究者によって評価が大きく分かれている。かつては、「失政によってバブルを引き起こした汚職官僚」という評価が一般的だった。だが、近年では「幕府を財政危機から救った名勘定奉行」として重秀の功績を評価する動きもある。(略)
荻原重秀が主導した政策は「貨幣改鋳」である。貨幣改鋳はこれまで流通していた貨幣を回収し、新たな貨幣と交換する施策だ。当時の貨幣は金と銀を主な原材料としており、含有物の量や比率が貨幣の価値となっていた。そこで、当時流通していた慶長小判を回収し、金銀の含有率の低い元禄小判に改鋳したのだ。
元禄小判に改鋳するメリットは、「出目」といわれる通貨発行益だ。金や銀の含有量が多い旧貨幣を回収し、含有量を減らして再発行することで、流通する貨幣量を増やせ、発行者はその差益を稼げる。慶長小判は含有量の84%が金であったが、改鋳によって57%まで減少。金の含有量を3分の2にすることで3分の1の差益を得ることができる。これを実行したのが、当時勘定吟味役だった荻原重秀だ。(略)
重秀の改鋳は、貨幣の名目的な価値の追求という点で画期的であった。重秀と同じ時代に生きた儒学者である太宰春台(1680~1747年)の著作とされる「三王外記」によると、重秀は「貨幣は国家が造る所、瓦礫(がれき)をもってこれに代えるといえども、まさに行うべし」と語ったという。つまり、国家が発行する貨幣は、瓦礫のようにその実物価値がなかったとしても、名目的な価値を有するという見解だ。(略)」
ご紹介した大崎氏のコラムは、一方的に荻原重秀の業績を評価する類いのものではありません。
コラムの結びに「しかし、重秀の施策のその後は、意図しない形となる。江戸幕府に大打撃を与えた元禄バブルとその後については後編で紹介する」と記したとおり、重秀の貨幣改革・財政改革に対する旧来型の悪評を払拭する態を示しながらも、「元禄の貨幣改鋳は疲弊した幕府財政の立て直しや民間経済の隆興に一定の効果はあったが、結局は予期せぬバブルを招き、幕府内で賄賂が横行し物価高により民衆が苦しめられた」というお決まりの批判コースを辿りそうなフラグが立っています。
さて、元禄期と言えば、元禄文化、元禄バブル、護国寺や湯島聖堂の造設、公儀代官の大粛清、河村瑞賢による航路開拓、生類憐みの令、赤穂事件など歴史的なトピックスに彩られた華やかな時代ですが、教科書では「(原因には言及しないけど、いつの間にか)花開いた元禄文化のきらびやかさの陰で、綱吉の我儘に庶民が振り回され虐げられた時代」という“自虐史観”を基に綴られ、一方で緊縮デフレ不況が横行し、庶民に生活苦を強いた正徳の治や享保・寛政・天保期を「改革の時代」と手放しで誉めそやすのがお約束です。
荻原重秀は金座や銀座の商人たちの献策を基に、西欧諸国に先駆けて経済史に深く刻まれる貨幣改鋳を幕府に提案しました。
彼は、経済を蔑視し貨幣を語ることを卑しむ朱子学思想に染まり切った幕閣だけでなく、朱子学や陽明学の最大の信者であった時の将軍 徳川綱吉の首を縦に振らせたことは驚嘆に値します。
30年にも及ぶ平成令和不況下の現代ですら積極財政策を主張しようものなら、「お前は次世代に借金のツケ回しをするのか!」、「日本は世界一の借金大国なんだけど?」、「ハイパーインフレが起きたらどう責任を取るんだ!」と批難囂々ですが、荻原重秀が活躍した元禄期は、そもそもマクロ経済という概念すらなく、武士が経済を語るなど以ての外の下賤な行為と断じられる世の中でした。
荻原は切米150表取りの御家人身分から伸し上がった切れ者の成り上がりで、代官大粛清の折には責任者としてかつての同僚を処断するなど厳しい処置を取ったため、当然周囲に敵も多かったことでしょう。
そんな彼が持ち出したのが驚天動地の貨幣改鋳という奇策です。
幕閣の面々は、跳ね返りの成り上がり者の鼻柱をへし折るチャンスとばかりに彼を面罵しに違いありません。
貨幣改鋳の提言は、荻原にとって蟄居閉門による解職リスクに晒される大きすぎる賭けだったと言えます。
彼がどのような意志や覚悟を以って貨幣改鋳を訴えたのか、私たちは知る由もありません。
頭でっかちで実務を知らず、女を腐らせたような嫉妬深さから自分の正当性をネチネチと日記に書き綴った新井白石みたいに暇人であったなら、荻原も自分の業績や想いを後世に残す心の余裕があったかもしれませんが、彼のように仕事のできる男ほど上司や部下から頼りにされ筆をとる暇すらないものです。
彼が失職の危機に晒されつつも、世界の経済史に残る貨幣改鋳という偉業に踏み切った動機は、差し迫った幕府の財政危機を脱し、その御金蔵を潤すためだったのは想像に難くありません。
マクロ経済という概念すら存在しなかった時代背景を考慮すると、彼がマクロ経済の隆盛を見越して貨幣改鋳による積極財政を推し進めたというのは、いささか持ち上げ過ぎの感を拭えません。
ですが、彼は見事に貨幣の本質を見抜き、ケインズやクナップより200年も前に貨幣国定説を実践に移し管理通貨制度の実現可能性を証明してのけるという偉業を成し遂げたのです。
新井白石ばかりでなく、後世や現代の朱子学者かぶれの緊縮バカどもは、彼の偉業に嫉妬し、その業績を貶めるのに必死ですが、元禄の貨幣改鋳は元禄文化と民衆経済の勃興という形で見事に開花しました。
元禄文化は教科書にも必ず載る日本史上の重要なターニングポイントですが、「元禄文化=俵屋宗達・尾形光琳・菱川師宣らの高級絵画=大名やお金持ち限定のサロン文化」というイメージで語られがちですが、実際はそうではありません。
元禄文化は貴族や大名、高級旗本だけの文化ではなく、間違いなく庶民を中心に発達した文化だったのです。
【参考】
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「江戸時代は、庶民の文化が発達した時代でした。17世紀末の元禄(げんろく)のころは、江戸や大坂、京都が大きく発展し、その繁栄によって新しい文化が栄えました。井原西鶴(いはらさいかく)は、「浮世草子(うきよぞうし)」で武士や町民の生活を表し、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)で、身近な事件を題材にした台本を書きました。演劇として発展した歌舞伎では、市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)や坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)などの役者が人気を集めました。松尾芭蕉(まつおばしょう)は、俳句で自身の気持ちや感情を表現し、作品を発表しました。」
「元禄文化が生まれる前までは、日本の文化の中心は、公家(くげ)や大名、一部の豪商など上流階級の人々でした。しかし、江戸時代も17世紀後半になると、世の中は平和になり、一般庶民の生活にも、ゆとりが出てきます。農業をはじめ、さまざまな産業が発展し、経済力をつけた町人も現れました。豊かになった町人が、学問や娯楽にいそしみ、絵画や文学、演芸などのジャンルで活躍を見せたのが、元禄文化の大きな特徴です。」
荻原が行った貨幣改鋳という超積極財政策により、貨幣は幕府→商人→町人・農民(庶民)へと流れ出し、所得が増えた庶民は消費や需要を活性化させ、絵師や俳人、文人らに多くの仕事を発生させ、華やかな元禄文化を開花させたのです。
貨幣改鋳という財政政策があったからこそ、俵屋宗達・尾形光琳・菱川師宣・井原西鶴・近松門左衛門・市川團十郎・坂田藤十郎・松尾芭蕉といった歴史に名を遺す“供給サイドの才覚・才能”が大いに刺激され、生産性が向上し、世界が驚嘆する数々の歴史的文化財が世に生まれたのです。
元禄の貨幣改鋳による元禄文化の勃興は、需要が供給を刺激し、供給力が強靭化した最たる事例でしょう。
荻原の偉業は、新井白石の嫉妬や妬みに散々攻撃されながらも、脈々と生き続け後の世に再び開花します。
徳川吉宗の治世に行われた享保の改革は、正徳の治というデフレ政策により疲弊した幕府財政を、何の成果もない我慢と緊縮政策で乗り切ろうとして失敗し、庶民の反感を喰らって頓挫しかけました。
そこで登場したのが名奉行 大岡忠相が献策した元文の貨幣改鋳であり、幕府は再び積極財政に頼って大失敗だった享保の改革を破綻寸前で食い止めることに成功しました。
貨幣改鋳に否定的な日銀でさえ、元文の貨幣改鋳は成功だったと認めています。
荻原による先駆的・革命的な貨幣改鋳が、庶民層の所得向上と元禄文化の開花という実績を残したからこそ、大岡がその業績を参考にして元文の改鋳に踏み切れたのであり、そうした先人の努力がなければ、江戸幕府は開闢100年を待たずして倒壊していたでしょう。
彼こそが「江戸幕府中興の祖、国定貨幣説や管理通貨制度を実証した世界初の偉人」として高く評価されるべきです。
さて、長々と綴ってきましたが、私は、江戸時代の経済常識や貨幣観に真っ向から立ち向かい、周囲からの猛批判や激烈な逆風にも屈せず、頑として、しかし、理路整然と貨幣改鋳の理とその経済効果を説き、時の将軍の心を動かして見事に実践させた荻原の覚悟や矜持こそ、「真の改革者」と称するに相応しい人物だと思います。
昨今の政治家には、人気取りのために改革者を称する者が目立ちますが、彼らの云う改革とやらの中身を吟味すると、ほぼ例外なく「増税緊縮政策による国民への負担のツケ回し」、「増税や社保負担増による庶民への甘え」でしかありません。
国民の所得を減らし、明日への希望を断ち切る愚策を改革と呼ぶことはできません。
それらは国民に対する強請や恫喝です。
真の改革書を自称する気があるのなら、貨幣や国債増発という現代の貨幣改鋳を通じて超積極財政策を唱え、消費税廃止・社保負担全額国庫負担化・BI導入という経済改革案を示して、国民所得を名実ともに引き上げるよう主張すべきです。
>“1円玉を造るのに3円掛かるって知ってる?”
硬貨とは結構な耐久性を持つ、譲渡可能な借用証書ということで、そのような便利なツールに相応のコストがかかるのは当然のことですよね。
>“ついでにデジタルマネーならコストゼロだって知ってる?”
国民の正しい貨幣観涵養のために、ぜひシリーズ化してほしいところですが、途中で国税にガサ入れされそうな予感がします(笑)。
https://twitter.com/p_manjiro/status/1441560571334201354
上記、先日放送の「朝まで生テレビ」、半沢直樹みたいで楽しかったです。
>>国民の正しい貨幣観涵養のために、ぜひシリーズ化してほしいところですが
そう思います。
そもそも”コスト”という概念自体が、貨幣(円)という存在に内包されるものですから、コスト云々を盾にして「1円玉を造るとムダなコストが嵩むぞ~」とドヤるのが間違っていますよね。
藤井教授も奮闘されていますね。
最近では、ゼロコロナ系の反緊縮派の連中から幼稚な攻撃を受け、ご苦労なさっておられるようですが、藤井さんの地道な広宣活動はきっと実を結び、国民に積極財政の重要さを浸透させる重要な推進力になっていると思います。
>ゼロコロナ系の反緊縮派の連中から幼稚な攻撃を受け
まあ、一年以上も前の、いわゆる「第一波」や最初の緊急事態宣言の頃から分析されていたことですが、人流とPCR検査要請者数との間に目立った相関関係はありません。ウィルスが人から人へ移るという理屈を考えれば、固定観念からなかなか受け入れ難い事実ではありますが、それでもデータ分析でそうなっている以上、「季節性のインフルエンザと同様に、新型コロナも勝手に増えて勝手に収束する。ロックダウンなどナンセンスだし、撲滅など到底無理な話」ということを理解し、大マスコミや「コロナ怖い派」の言論人は、主張を去年の段階で修正しなければなりませんでした。
ただでさえ消費税増税で弱っているところに、さらに一年数ヶ月を無駄にしてしまったわけですが、今回は「ホンマモンのパンデミック」が襲来した時の予行演習になったとでも思い、次へ進むしかありません。しかし最近、「第五波は人流関係なく収束した。もう政府や医師会は、医療供給体制を増やすことだけに注力したら? とりあえず飲食店に謝れ!」みたいな気付きが、ようやく一般の世論に広がり始めたのは良い傾向だと思います。
同感です。
診療体制強化と治療薬の早期承認により、コロナに淡々と対峙するべきだと思います。
>「季節性のインフルエンザと同様に、新型コロナも勝手に増えて勝手に収束する。ロックダウンなどナンセンスだし、撲滅など到底無理な話」ということを理解し、大マスコミや「コロナ怖い派」の言論人は、主張を去年の段階で修正しなければなりませんでした。
いやさすがにそれは、ブラジル大統領がブラジルにおいて、去年から今年にかけて2年かけておこなった、言い方は悪いですが、壮大な社会実験を見ますと、それはさすがに・・・・・・・。
>ブラジル大統領がブラジルにおいて
「もし緊急事態宣言を出して人流の抑制に努めていなければ、日本もブラジルや欧米並みに、被害が何十倍にも拡大していたでろう。行動制限なしなら、日本人は42万人死んでいたかもしれない」という見解でしょうか? 私は日本人の新型コロナ被害が欧米と比べ、「さざ波」と呼べる程度に軽微なのは、人流以外の要素が大きいと考えています。
それは、日本人(もしくはアジア人)の持つ遺伝子とかの話しでしょうか?(もし違っていたらすみません・・)
もしそれなら、現状ではまだ根拠の薄い話かとは思います。
(もし仮に、遺伝子レベルの優位性が欧米に比してあったとしても、夏場の感染拡大を見れば、大なり小なり、コロナの影響を受けるというのははっきりしていると思います)
ちなみに私は、遺伝子以外の要素が現状での日本の新型コロナの患者数の原因かと思っています。
それは、ある程度の人流抑制と、マスクと手洗いとうがいです。
この辺の行動が、欧米に比べて日本は優れていたのではないかと思っています。
幼稚園から小学校にかけて公教育、または家庭において養われた公共衛生(お外から帰ってきたら、手洗いとうがいをしましょうね)の概念が、欧米に比べて進んでいたのではないかと思っています。
さらには、日本人の隣組の慣習にも近しいほどの、相互監視の習慣(場合によっては悪習)が、行動の自主的な自粛や、マスクの着用を、皮肉なことに、欧米に比して推し進めたとも見ています。(マスクに関しては、花粉症の影響もあって、マスクそれ自体に欧米人のような忌避感情が薄かったというのもあるかもしれませんが)
また秋口に入っての患者数の減少は、あと2~3週間もすれば国内の成人人口の約3分の2がワクチン接種を完了するというワクチンの浸透具合と、夏場の連日東京10000人を超える感染者と重傷者続出、医療崩壊寸前(もしくは実質医療崩壊)の危機感による行動変容が、影響としてあるのではないかと考えます。
ちなみに、その前の今年の夏場にコロナ患者が増えたのは、デルタ株の流行のピークにぶつかったのと、オリンピック開催による日本人全体の気の緩み、それにお盆、夏休み等が重なった結果とも感じます。
ちなみに、ワクチンの接種が今後かなり進む(3回目接種含む)のと、国産ワクチン並びに治療薬も開発されることを考慮すれば、今後少しずつ人流の抑制は解除していって、コロナとの共生の段階に入っていくのではないかと考えます。
(台湾が今般改めてほぼゼロコロナを達成したのを見るに、初動次第ではゼロコロナもできたかもしれませんが、現状ではゼロコロナを完璧に行うのはきつい部類に入ったかとは思います。)
(仮にゼロコロナを達成しても、海外との交流を考えれば、国民のワクチン接種と海外交流における外国人のコロナ罹患者との接触は不可避とも考えますし・・)
望む望まないに関わらず、ある程度の新型コロナとの共存は、現状の人類では不可避ではないかとは思います。
>日本人(もしくはアジア人)の持つ遺伝子とかの話しでしょうか?
遺伝的なことよりも、発生源である中国との距離や交流の程度のようにも思えます。とりあえず、論点が分かり辛くなってもいけないため、ここでは「感染拡大の主因は人流以外の何か」とだけ言っておくことにします。
>マスクと手洗いとうがいです
マスクの劇的な効果に私は懐疑的ですが、手洗い、うがい、非接触(他人同士でハグや頬にキスをしない)の慣習は重要と考えます。欧米人には毎日入浴しろ、土足で家にあがるな不潔、とも言いたいです。そしてこれも、人流抑制とは関係なく、政府や自治体が啓蒙すればいいと思います。
>台湾が今般改めてほぼゼロコロナを達成したのを見るに、
>初動次第ではゼロコロナもできたかもしれませんが、
私も同じように考え、「日本政府の最大の失態は初動(渡航制限)の遅れ」と言っていました。しかし最近では、「日本の規模や体制だと、当初は抑制できていても、いずれどこかの段階で国内への流入や隔離の失敗に行き着く。100%の封じ込めは、やれるところまでやってみて良かったかもしれないが、時間は巻き戻せないし、これは最重要課題ではない」と結論づけています。
>ある程度の新型コロナとの共存は、現状の人類では不可避
少なくとも日本の被害はインフルエンザと同程度のため、あれと同じような距離感で共存していくしかありません。
同意できない部分につきましては、これはあとはこのやり取りを見る第3者の判断にゆだねるものではありますが、それでもこれだけは、1点・・・、
>少なくとも日本の被害はインフルエンザと同程度のため、あれと同じような距離感で共存していくしかありません。
私はどうもここは毎回同意ができません・・。
インフルエンザの死者数は、去年、もしくはおととし以前のデータとなります。またそれも、ワクチン並びに治療薬があって、なおかつ日本国民はインフル対策などほぼほぼゼロ(手洗い・うがいもマスクも現在に比べればまるで徹底されていない状況)で望んだ結果での数字ということになります。
しかし、新型コロナに関しましては、公衆衛生から人流抑制にいたるまで、あらゆる対策を講じたうえで、しかも、これはインフルエンザと違ってワクチン、治療薬が無い状態での死者数・重傷者数です。
軽々に同列に論ずるのは危険どころか、これほどまでに対策した上で新型コロナがこれほどの人的被害をもたらしたと考えれば、現時点におきましては、季節性のインフルエンザと比べてもはるかに危険な病気なのではないかとこれは想像がされます。
(しかも、コロナ対策の諸々の徹底のとばっちりの結果か、昨年は日本国内においてインフルエンザがほぼほぼ撲滅状態に近いところまで減少をしました)
また、この先、ワクチンと治療薬が満遍なく行きわたり、なおかつ、新型コロナがこれ以上の不穏な変異を見せさえしなければ、この先の話しとしては、往年の季節性のインフルエンザと同等の危機意識で事足りるようになる時も来るかもしれませんが、現時点ではまだそれを考えるのは少し尚早なのではないかとも思います。
>しかも、これはインフルエンザと違ってワクチン、
>治療薬が無い状態での死者数・重傷者数です
「しかも」の使い方がおかしいように感じます。これだと阿吽さんの前述(直近)の主張を補強するどころか、新型コロナの被害がさらに軽微となる可能性すら示唆していることになります。
つまり、「新型コロナの脅威はインフルエンザと同程度」という私の主張からさらに進み、慣れれば「新型コロナの脅威はインフルエンザ以下」という評価もあり得るということです。
>しかも、コロナ対策の諸々の徹底のとばっちりの結果か、
>昨年は日本国内においてインフルエンザがほぼほぼ
>撲滅状態に近いところまで減少をしました
これはウィルスの吸着の関係で、コロナ系が流行った年はインフルエンザによる被害が激減すると言われており、私も「コロナ対策の恩恵」が主因ではないと考えています。
>「しかも」の使い方がおかしいように感じます。
私個人としましては、今回に関する「しかも」の使い方に特別違和感も感じませんでしたので、ここの問題の判断につきましては、第3者にゆだねます。
>つまり、「新型コロナの脅威はインフルエンザと同程度」という私の主張からさらに進み、慣れれば「新型コロナの脅威はインフルエンザ以下」という評価もあり得るということです。
正直、私の書きました文章でどうしてこういう結論にいたるのかは、正直よくわかりませんが、私は私個人の見解では、極力わかりやすく書いたつもりでは、いちおうはありますので、ここの部分の判断も、第3者にゆだねます。
>これはウィルスの吸着の関係で、コロナ系が流行った年はインフルエンザによる被害が激減すると言われており、私も「コロナ対策の恩恵」が主因ではないと考えています。
そりゃあ、インフルエンザの流行る年流行らない年はありますが、改めて書きますが、昨年から今年にかけて、インフルエンザの流行をほぼほぼ撲滅状態まで持って行った年というのは、そうはないのではないかとは思います・・。
>昨年から今年にかけて、インフルエンザの流行をほぼほぼ
>撲滅状態まで持って行った年というのは、そうはないのではないか
当該期間に何があったか、それはもちろんコロナウィルスの流行です。しかしながら、新型コロナ対策に伴う各人の予防行動が、インフルエンザの被害を壊滅させたとの見解には賛同できません。
>しかしながら、新型コロナ対策に伴う各人の予防行動が、インフルエンザの被害を壊滅させたとの見解には賛同できません。
このへんのことは、去年から今年にかけてのインフルエンザの患者数の推移と、さらには複数年にわけてのデータを見て頂ければ、ご同意いただけるのではないかとは思うのですが、どうしてご同意頂けないのか、私にはわかりません。(データはあえて出しません。ググればすぐにそのことを確認できますので)
あのデータを見て、それをインフルの各年の流行の増減の範囲とみなす考えは、私にはできません。
また、普通に考えれば、普段以上の手洗いうがいの徹底だけで、ウイルスであるインフルエンザのある程度の流行は、かなり抑えられるのではないかとは思うのですが・・、どうしてコロナ対策(公衆衛生の徹底)が、インフルエンザの激減のことと無関係とお考えになられるのかは、正直私にはよくわかりません。
ただ・・、今回、おおよそ書いておかなければならないと思ったことは、おおよそ書けたとは思いますので、あとの判断は第3者の方にゆだねます。
ポル万さん、複数回にわたり長時間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。m(__)m
>あのデータを見て、それをインフルの各年の流行の増減の範囲とみなす考え
いえ、「これはウィルスの吸着の関係で、コロナ系が流行った年はインフルエンザによる被害が激減すると言われており」と述べていることから、毎年のインフル単体の流行云々や公衆衛生の問題ではなく、「コロナとインフルの流行は共存できない。両者の猛威は同時に襲って来ない。そして当該期間はコロナが大流行。よってインフルの被害は低調」が私の主張であることは明白です。「たまたまインフルが流行しなかった。ラッキー」ではなく、「コロナが流行しているから、インフルは流行しない」と申し上げています。
それはコロナ騒動による公衆衛生徹底の効果もいくらかはあるでしょうけれど、それだけでインフルを壊滅状態に追い込めるのであれば大ニュースで、もっと以前から徹底してやっていろよという話になってしまいます。
>ありがとうございました。m(__)m
こちらこそ、ありがとうございました。本来の論点からズレてしまいましたが、要は多大な犠牲を払って人流を抑制したところで、誤差程度の感染拡大防止効果しか確認できないというのが私の主張です。感染症への恐れは個人差もありますし、私も別に手洗い、うがいをやめろとか主張しているわけではありません。念のため^^
なるほど、ウイルス干渉ですか。
ただ、これは完全にはまだ認知されきってはいない話なのではないでしょうか。(ググって見た結果)
そういう考えなら、コロナ感染の波の少ない時期に、インフル感染が反比例して多少は増えても良いような感じもしますし・・。
そうなりますと、風邪をひけばインフルにはかからないという話にもなるような気が・・?(あくまで今はやりのコロナは新型の風邪(コロナ)です。)
どうなんですかね?
ちょっとわかりません・・。
まあ、ポル万さんも、今般の新型コロナ対策として、手洗いとうがいの効果に関しては認められているようなので、これに関してはよくしていただいて、お体大事にして頂きたいと思います。
万・万が一ということは無いようにして頂ければ、私としては、ポル万さんに何かあったなんていうことが無ければ、やはり私としては一番望ましいです。
この間のプロゲーマーのダイゴや、野々村真、またはここ近日亡くなられたという若いユーチューバーの話しもありますし・・。
どうぞ、お体は大事になさってください。m(__)m
ダイゴじゃなくて、プロゲーマーはウメハラでした。
失礼いたしました。
テスト