生活保護の捕捉率が低すぎる問題。これに対して「生活保護は国民の権利なのだから堂々と申請すべきだ」と言われます。しかし、この言い方はイマイチ日本人には響かないのではないでしょうか。日本人の伝統的な感覚「恩」、そして「義務」と「権利」の関係から考えてみます。
生活保護は増えているが、捕捉率は低い
コロナ禍で受給世帯は増加
コロナ禍のせいで、生活保護の受給世帯が増えているようです。
昨年4月のデータですが、申請件数が一昨年と比べて約25%、受給開始世帯数は約15%増とのこと。今年はさらに拡大していると予想します。
参考:日本経済新聞「生活保護申請24・8%増 新型コロナ影響」
欧米に比べ低い捕捉率
↑の記事の数字でざっと計算したところ、申請すれば90%は受給できているようですが、
その一方で日本の生活保護の捕捉率、
すなわち「所得が少なくて、生活保護の対象となる人のうち、実際に受給している割合」は何と2割。(欧米は6~8割にも達するようです……)
高橋聡 Official Blog バッカス「「生活保護の不正受給を絶対許さない!」は幸福度を上げるのか」
かんたんにイメージしてみると、
生活保護対象となる困窮世帯が我が国に100あるとして、
実際に受給しているのが20世帯。申請したけどダメだったのが2世帯。
申請していないのが78世帯もある状態です。
天皇陛下がすべての国民の生活を心配し、日々祈られているにもかかわらず、由々しき事態と言えましょう。
よく言われる3つの原因
この捕捉率の低さの原因としてよく言われるのが以下の3つ。
ア 制度が正確に知られてない
イ 申請に来た人を、役所が間違った説明で追い返す「水際作戦」
ウ 生活保護は「恥」であるという意識
参考:しんぶん赤旗「生活保護の捕捉率って?」
このうちウについては、以前解説したところでもあります。
もう一つの要因「与えるのはよいが、求めてはいけない」
しかし、これらに加えてもう一つ、要因があるのではないかと思います。
それは「与えるのはよいが、求めてはいけない」という感覚です。
言い換えれば、「義務を果たすことを尊び、権利を主張することを卑しむ」意識。
これは伝統的に日本人が重視する「恩」の観念から派生すると考えられます。
「恩」の「貸借関係」
「恩」は「めぐみ」とも読みますが、
生み育ててくれる親、つき合ってくれる友人、生活を支えてくれる社会と働く人々、病気やけがを癒してくれる医療者、秩序を維持してくれる警察や公務員など、
数え切れぬほどの「恩恵」を受け、また逆に与えながら人は生きています。
受けた「恩」は返すべきだし、「恩」を与えた者はお返しを期待するでしょう。
ここには「恩」の「貸借関係」があると言えます。
主張できるのは「債務」のみ
とはいえ、この「貸借関係」で主張できるのはあくまで「債務」(返す義務)であって、「債権」(返せと言う権利)ではないのです。
人は『恩を受けた』と債務を感じなければならないが、『恩を施した』と権利を主張することは許されない
『日本教徒』山本七平 角川oneテーマ新書 平成20年 p.62
例えば、大金の入ったカバンを拾い、警察に届けたとします。
そして無事、持ち主へ戻った場合。
内心、「お礼金もらえるかな~」などと思ってしまうかもしれませんが、さすがに
「最大2割は拾得者に権利があるんだから、お礼金をください!」
と主張するのははばかられます。
それどころか実際に警察から「報労金(=お礼金)は請求しますか?」と聞かれたら、
「いえ、結構です。当然のことをしただけですから」
と言ってしまう人が日本には多いのではないでしょうか。
逆に落とし主は「恩を受けた債務」を感じ、報労金を受け取ってもらえないなら、菓子折りでも送りたいと警察に相談するとも考えられます。
補償の権利すら主張しない
恩着せがましく「権利」を主張することはしない。
逆に恩を返す「義務」は躊躇なく主張する。
そういう傾向、それを善しとする価値観が日本人にはあります。
加えて、自分が受けた「被害への補償」という権利すら主張しない傾向もあるのです。
それについて、西谷幸介氏は以下の2つの例を挙げています。
一 水俣病患者らは加害者である会社チッソの幹部宅前に行ったが、補償を求める主張は一切しなかった。それどころか、御詠歌をうたい、勧進をおこなって、「チッソのえらか衆にも、永生きしてもらわんば、世の中は、にぎやわん」と言った。
二 平成21年の釜山射撃場火災。犠牲になった日本人観光客の遺族は、韓国政府からの謝罪を受けても、補償について一切発言しなかった。
参考:『母子の情愛 ――「日本教」の極点』西谷幸介 ヨベル新書 令和2年 p.86-87
生活保護は国民の「義務」
日本人の美徳が生活保護申請をためらわせる
上記はまさに日本人の美徳だと思います。
しかしこれこそが、生活保護の捕捉率を低くする大きな要因でもありましょう。
生活保護の申請はまさに、補償や権利の主張ととらえられるからです。
ゆえに、「生活保護は国民の権利なのだから、所得が少なくて困ってるのなら堂々と主張すべき」と言っても、効果は今一つと思われます。
恩を受ける場合も、「義務」なら問題ない
では、どうすれば保護を受けるべき人が申請するようになるでしょうか。
前述の西谷氏の著書にヒントがありました。
同氏は日本的「恩」観念による倫理的基準について、次のように言っています。
施恩も受恩もその遂行者の権利としてではなくあくまで義務として認められるべきだ、ということ
前掲書 p.83
恩を受ける場合も、それが「義務」ならば問題ないのです。
西谷氏は次のようなエピソードを紹介しています。
あるアメリカ人宣教師が、日本の教会のために多額の予算の提示をした。
しかし、日本の牧師たちはそれを用いる必要が多くあるにもかかわらず、なぜか自分たちから発言しようとはしなかったため、会議はうまくまとまらなかった。後にその宣教師は西谷氏の論を読んで曰く、
その予算提供の代表者として、これを善用することは皆さんの権利ではなくて義務なのですよと、会の始めに私が宣言していればよかったのですね
前掲書 p.87-88
「義務」としての生活保護申請
上記はなかなか使える言い方ではないかと思います。つまり……
低所得に苦しんでいるならば、生活保護を申請することは「義務」なのです。
「健康で文化的な生活」を送り、天皇陛下に安心していただくことは「義務」なのです。
国民は自由と権利を公共の福祉のために使う責任を負っている。
家族や子供に医療・教育を享受させることは、公共の福祉に適うこと。
生活保護を受けてでも、この「義務」は果たすべきです。
このように考え、主張することが、捕捉率向上の一助となると思うのですが、いかがでしょうか。
というか、これってコロナ禍の補償金や給付金、消費税ゼロを求めるにも使えそうですね。
トップ写真:明治時代後期から大正時代にかけての西野神社拝殿(田頭寛)
今回のも素晴らしいエントリーでしたね。自己責任論が好きなネオリベ維新の連中からは、「恩」とか「おかげさま」という言葉は最も縁遠いものと感じています。
ありがとうございます! おっしゃるとおりで、維新(この言葉に値しない者たち)は「自己より他者を優先する」という日本人の美徳を楯にとって、国民に自己犠牲を強います。おまけに、それに疑義を呈する者を叩かせて国民を分断しつつ、党勢の拡大を図るのですから、どうにも困ったものです。
[…] 度のもの」(p.286 施光恒氏による解説)と考えれば、共通性は明らかでしょう。神道をベースに、儒学や仏教が合わさった価値観。山本七平が「日本教」と呼んだところのものですね。 […]