ポリコレ棒を取り上げろ|ポリティカル・コレクトネスによる抑圧

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男女、人種、弱者、コロナ禍自粛などの問題で、ポリコレ棒(ポリティカル・コレクトネス/政治的正しさ)が振り回されています。しかし、これは経済や国防などの重要問題から目をそらし、危機を増長させるばかりか、国民の分断を招くものです。「正しさ」は、異なる意見に耳を傾けつつ、点検しながら追求すべきものです。

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非難・罵倒のポリコレ棒

ポリコレ棒が猛威を振るっています。
男女平等、人種平等、宴会自粛といったポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)を踏み外した者は、非難・罵倒のポリコレ棒で殴ってよい。
マスコミは批判の嵐、ブログやツイッターなどSNSは大炎上、
まさに「君がッ 泣くまで! 殴るのをやめないッッッ」です。

森喜朗元首相の件が代表的ですが、「アウト認定」されてしまうとおしまい。
どのような事情があろうと関係なし。
「こいつは悪者、殴ってヨシ!」の燃焼性ガスが空気として蔓延します。
新型コロナ以上に、こちらの方を「まん防」すべきと思うほど。

ポリティカル・コレクトネスは「目くらましのサーカス」

その様は、まるで古代ローマのコロッセオ(闘技場)を思わせます。
罪人が処刑される、あるいは猛獣に食い殺される。
群衆は喚声をあげ、罵声を浴びせ、熱狂します。
悪の滅びを喜び、安全な観客席で正義に酔うのです。

しかしこれは、目くらましのサーカス(見世物)。
政治・経済・国防・福祉などの重要問題から、国民の興味・関心をそらしてしまいます。
「パンとサーカス」に熱狂し、共和制を失って僭主制に陥ったローマ人と同じ。

空気に合わない言動⇒「アウト認定」

おまけに「アウト認定」された者とて、法に背いたわけではありません。
思想・信条の自由のある国において、「私刑」(言論リンチ)が横行するのはまったく自殺行為ではないでしょうか。

「女は男の所有物だ」「高齢者や持病持ちはコロナでさっさと死ねばいい」などと主張するなら、厳しく批判されるのもわかりますが、

最近ポリコレ棒で殴られているのは、そういう人たちではありません。

「女性の多い会議は時間がかかると、ある人が言っていた」という発言。
人数多めの飲み会や、はしご酒。

男女は平等でなければならない⇒女も男と同じく表舞台で働き、活躍しなければならない
コロナ対策で宴会自粛が要請されている⇒人数多めの飲み会などやってはならない

といった空気に合わない言動をしたためです。

異論の抑圧と国民分断

しかしながら、この何とも単純で教条的な空気は異論を思い切り抑圧します。

「家事や育児にがんばる女性だって十分に輝いている」
「適性や実力、経験によって地位獲得がなされれば十分で、その結果の男女比にこだわるべきではない」
「若者たちにとって、二度と返らない貴重な経験や出会いの時間が自粛によって奪われている。そこまでして老人の余命を守るべきなのか」
「新型コロナを、致死率2~9割のエボラ出血熱と同じ2類感染症に指定するのはおかしいのではないか?」

というようなことを思っても、なかなか発言できません。(特にリアルでは……)

こういった思いを抱く国民はけっこう多いのではないかと思いますが、
彼らの心は言葉にされぬまま鬱屈することになります。
ポリコレ棒で殴られる恐れがあるのですから当然です。

これでは国民が分断されてしまいます。

「正しさ」のためにはポリコレ棒は捨てるべき

スタンフォード大学のアラナ・コナーは言う。「相手を人種差別的だ、性差別的だ、外国人嫌いだと批判しても、何の解決にもなりません。むしろ相手を怯えさせるだけです。社会心理学的には、人は脅威を感じると考え方を変えられなくなります。耳を傾けられなくなるのです」。人の心を変えるために必要なのは、相手と関係を築くことを目的とした会話である。相手の気持ちを理解しようと誠実に話をすることが必要なのだ。

『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』ジョーン・C・ウィリアムズ著 山田美明・井上大剛訳 集英社 平成29年

ポリコレ棒は捨てるべきなのです。真に「男女平等」あるいは「コロナを克服する」といった「正しさ」の実現を目指すつもりならば。

棒を捨てない者は、正義感に酔いたい者、「アウト」な人を叩いてマウンティングしたい者、あるいは騒動に乗じて自らの地位向上に利用する者なのでしょう。

異なる意見に耳を傾けつつ、点検する

聖徳太子の十七条憲法、第十条ではこう言われています。

人の心はさまざまでお互いに相譲れないものをもっている。相手がよいと思うことを自分はよくないと思ったり、自分がよいことだと思っても相手がそれをよくないと思うことがあるものだ。自分が聖人で相手が愚人だと決まっているわけではない。ともに凡夫なのだ。是非の理をだれが定めることができよう。お互いに賢人でもあり、愚人でもあるのは、端のない鐶(リング)のようなものだ。

聖徳太子「十七条憲法」を徹底解説。現代語訳を読んでみたい!

常に正しい人もいなければ、常に間違っているという人もいません。
「正しさ」は、異なる意見に耳を傾けつつ、点検しながら追求すべきものです。

神武天皇「正しさを養う心を広めよう」

我が国のはじまり、神武天皇の建国の詔にも、
「皇孫の正しきを養ひたまひし心を弘めむ」とあります。

「正しい心を広めよう」ではありません。
広めようと言われるのは、「正しさを養う心」です。

何らかの決まった「正しさ」でなく、「何が正しいのか、どうすれば善いのかを求める心」を広めたいということです。ポリコレ棒が猛威を振るう今、まさに顧みるべき言葉だと思います。

例外:明白な命の危険と緊縮財政

とはいえ、何事も例外はあります。
急迫不正、命に危険の及ぶ明白な人権侵害、主権侵害が行なわれている場合です。

すなわち、北朝鮮による拉致、チャイナによるウイグルの虐殺・虐待・民族浄化、尖閣諸島への領海侵犯、欧米でのアジア系への暴力などは厳しく非難・追求されるべきでしょう。

さらには政府の緊縮財政/増税路線です。
日本経済の成長、生活の向上を阻害し、コロナ禍においても不十分な補償で自殺者を急増させています。補償なしの営業「自粛」強制は財産権の侵害でもあります。カネの問題は、命と健康に直結しているのです。

財政破綻が論理的にあり得ない主権通貨国の我が国において、いまだに

「国の借金は、将来へのツケまわし!」
「選択と集中だ、国は無駄遣いをやめろ」
「身を切る改革!」

などと主張する政治家や言論人はポリコレ棒並みに批判すべきと思います。
そうでなければ、国民の命が、国家の将来が守られません。

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阿吽
29 日 前

>「若者たちにとって、二度と返らない貴重な経験や出会いの時間が自粛によって奪われている。そこまでして老人の余命を守るべきなのか」

そりゃあ、そうですよ。

同じ日本国民なのですから。

.
>スタンフォード大学のアラナ・コナーは言う。「相手を人種差別的だ、性差別的だ、外国人嫌いだと批判しても、何の解決にもなりません。むしろ相手を怯えさせるだけです。社会心理学的には、人は脅威を感じると考え方を変えられなくなります。耳を傾けられなくなるのです」。

ここらへんの心理は、515や226という暴力をへて、軍部に逆らえなくなってしまった戦前の政党政治家にも通じるかもしれませんね・・。

当ブログは2019年5月に移転しました。旧進撃の庶民
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