杉本五郎中佐遺著『大義』|解説 第三章『「無」の自覚到達の大道』 井上雄彦『バガボンド』と和歌を通して

この記事は約7分で読めます。
杉本中佐が禅の修行をした、
広島県三原市にある仏通寺の仏殿
(写真:Carpkazu)

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
昨年に引き続き、戦前日本のベストセラー『大義』(杉本五郎著)の解説連載第4回です。 今回は第三章「「無」の自覚到達の大道」です。現代語での大意を示したうえで、これを現代に生かすべく、私なりの解釈・解説を行います。原文はこちらの「大義研究会」のサイトでご覧ください。

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第三章 「無」の自覚到達の大道 (大意)

そもそも、宗教・教育・芸術・武道・文学その他諸々、すべて「無」に到達するための道である。 すなわち、ほんのわずかも残すところなく「我」を捨て去る手段なのだ。

無に到るまでの道には多種多様にあるわけだが、その根本にあるものはただ一つ、「人境不二」の道である。これは、境(=対象)そのものになりきる、境(=対象)にのめり込んで一体化する無雑純一(むぞうじゅんいつ)となることである。

寸暇を惜しみ、来る日も来る日もこの訓練を重ねた時、やっと人も対象もどちらもない、無一物(=何物にも執着せず、自由自在)の境地、いや、無一物すらない絶対無そのものに到達できる。

真忠ハ忠ヲ忘ル 念々是レ忠ナルガ故ニ
真孝ハ孝ヲ忘ル 念々是レ孝ナルガ故ニ
(真の忠は忠であることを忘れる 一瞬一刹那も残さず忠であるから
 真の孝は孝であることを忘れる 一瞬一刹那も残さず孝であるから)

この一句を味わうべきである。

(※ 境(きょう)=仏教用語で、認識の対象となる世界。)
(※(  )内は投稿者の追加分です。)

(解説)「無」の境地とは?

「無」とは一切の我執・私欲・利己心を捨て去った境地。
これは最高神である天照大神の境地でもある。すなわち何の見返りも求めず、大きな慈悲の心で地上をあまねく照らし、温めつつ、すべてを見通し把握する。
天皇は人の身をもって、この神の心・境地にあろうとし続けること126代という御存在。
「君民一如」を理想とする我が日本国民もまた、この「無」の境地に立つべく努めねばならない。
それはすなわち「人々の安寧と世の平和」という天皇の祈りを実現しようとする道である。

というのが第一章・二章で述べられた「無」でしたが、「無」は仏教・禅の目指す境地でもあります。
が、禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」、非合理的で説明不可能と言われるもの。本来、これを言葉のみで伝えるのはできないところ、 杉本五郎中佐自身が禅行を積んで得た実感によって叙述したのが、この第三章です。

なお、杉本中佐の禅の修行は非常に厳しいものだったようです。

「軍神(=杉本中佐)の修行たるや命懸けの誠にすさまじいもので、広島から三原の佛通寺へ参禅に出かける場合は朝の二時から三時に広島を立ち五時頃に佛通寺に到着、終日参禅してまた夜の十時か十時半頃に佛通寺を出て終列車に乗り自宅に着くのが夜中の三時頃というまさに超ハードなスケジュールをこなしていた。その修行はまさしく刻苦の修行というべきものだったそうです。

『大義』大義研究会 p.49 戸塚陸男氏による解説

(解説)「人境不二」とは何か?

さて、「無」に到るための根本として挙げられているのが「人境不二」ですが……
「心境不二」「心境一如」「主客合一」とほぼ同義と思われます。
詳しくは↓のサイトをご覧いただくとわかりやすいです。

「禅と悟り その合理的アプローチ 第6章 公案」
6.23 碧巌録第40則 : 南泉一株花(いっちゅうか)以降が該当部分です。

私なりにごく簡単にまとめますと……
・人間は目や耳、鼻といった感覚器で「境」すなわち「外界にある認識の対象」(他人や物体、光や音)を刺激として受け取り、それを脳に伝える。
・脳はそれまでに得た経験や知識、好き嫌いといった「自我フィルター」を通して刺激を処理し、意識においてその存在を認識する。つまり、あらゆるものを自我という色眼鏡で見ている。
・禅行によってこの色眼鏡/「自我フィルター」を外すと、対象をありのままに、また自らの内にあるもののように認識する。それが「人境不二」の状態である。

(解説)上泉伊勢守/『バガボンド』第7巻

この「自我を忘れ、対象をありのままに、また自らの内にあるもののように認識する」というのは、禅/仏道の専売特許ではありません。私が最初に想起したのは、吉川英治原作・井上雄彦著の『バガボンド』に登場する剣豪、上泉伊勢守です。

物語の中で、剣の達人・柳生宗厳と槍の達人・宝蔵院胤栄は、上泉伊勢守に挑みます。
当代随一とうたわれる上泉伊勢守に勝とうと躍起になるのですが……何度やっても勝てません。
殺気もなく静かに立っている上泉伊勢守に、二人はわけもわからぬまま木剣も木槍も奪われてしまう。

伊勢守は二人に言います。
「技の研鑽は素晴らしい  だが心の中は“我” それのみである」
「「相手に勝ってやろう」「己の力を」「強さを」「存在を誇示したい」「俺を見ろ」と――」(※)
「そんなことのために剣は―― 武はあるのかね?」
「我々が命と見立てた剣は そんな小さなものかね?」
「我が剣は天地とひとつ 故に剣は無くともよいのです」
(※は柳生宗厳が後に当時のエピソードを語る形で述べたもの)

宝蔵院胤栄は後にこう語ります。
「あの時 竹刀を捨てて わしの前に立ちはだかる師(伊勢守)はまるで―― 宙(そら)にまで その身が溶け出しているかのように 大きかったのう」

剣の修行を突き詰めることで、自我を捨て、対峙する相手の動きも心もありのまますべて、自らのものとして把握する……そのような「人境不二」「無一物/自由自在」の境地に到る。 漫画/フィクションの形式で描かれたものではありますが、わかりやすい例示だと思います。

上泉伊勢守の銅像

(解説)しきしまの道は「人境不二」へ続く

また別の例を挙げるならば、歴代の天皇が続けておられる「しきしまの道」すなわち和歌です。

和歌の創作、これは自分で経験してみるとすぐわかるのですが、或る一つのことを歌によもうとしてみるとすぐ気づくのは、かねてものを見たり、聞いたりする力がいかに弱かったか、いかにいい加減に見たり、聞いたりしていたかということです。小林秀雄氏が言われた、黙って一分間、ものごとを眺めるということがいかにむずかしいことか、そのことを身にしみて思い知らされるのです。

もう一つ、それは、上手につくろうとする虚栄心とたたかうことです。折角つくるからには、いくら何でもあんまりみっともない歌はつくりたくない、出来れば他の人からほめてもらえるような歌をつくりたい、そういう私心が必ず首をもたげてくるのです。ところがそういう気持でよんだ歌は、必ずどこかに大きな嘘がある、そうして他の人はその嘘に必ず気づくのです。大切なことはそのような私心を排除して対象を正確にたどってよむことで、それが出来れば、すなわち自分の心と、自分の言葉が一致したときには、何かすっきりした気持になれる、仏教でいう解脱という言葉を用いるのは大げさですが、何かそのような言葉ででも現わしてみたいような、はればれした気持になれるのです。その時ふと気がつくと、私心というものが拭い去られて、何か鏡の曇りがすっかりとれた時のような気持になっているのがわかるのです。

ものごとを正確に見ること、そして私心を排してものごとの動きにこちらの心をぴったり重ねあわせること、それが歌の修行であるとすれば、歴代の天皇方が歌の御修行をおつづけになったこと、人の言葉に耳を傾けるのが皇室の伝統だと仰言ったことが、一つのことであることを御理解いただけると思うのです。(改行追加は引用者)

小柳陽太郎著『日本のいのちに至る道』p.311-312

(解説)人境不二への道は様々に

上の引用文からもわかるように、歴代天皇は和歌の道を「人境不二」に至る助けの一つとされてきました。仏道修行・禅行ばかりが「人境不二」への道ではないわけです。

音楽、文芸、料理、絵画、スポーツ、演劇、教育、建築、診断、介護などなど、ブログ記事を書くこともその一つですが……
経験と練習を重ねつつ、邪念や雑念、欠点短所を捨てて、自らの作品/仕事を生み出そう、磨き上げようと集中する。それが、境(=対象)にのめり込んで一体化する「無雑純一(むぞうじゅんいつ)」となることだと思います。(上記引用文にあるように、これによって自分の理想が具現化すると、本人の心が救われるという効果もありますね。)

(解説)「無雑純一」では不十分

しかし実は、この「無雑純一」では不十分なのです。

お気づきかとも思いますが、いわゆる政商が自社利益拡大という仕事に対して「無雑純一」となったらどうなるか? 野放図な規制緩和が図られ、レントシーキングが蔓延します。

政治家ならぬ政治屋が自己権力の維持拡大という仕事に対して「無雑純一」となれば……天皇の願い「人々の安寧と世の平和」実現は遠のき、場合によっては我が国が衰退に向かうことになります。(現状はまったくそうであるように見えます)

詳しくは第五章で扱うことになりますが、やはり「我」「私心」を捨て去って、「無一物」さらに「絶対無」を目指すことが必要です。それは天照大神の境地であり、歴代天皇のあろうとされてきた境地です。

というところで、次回は第四章「神国の大理想」です。

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阿吽
4 years ago

>しかし実は、この「無雑純一」では不十分なのです。

そのとおりですね。

.
>天皇の願い「人々の安寧と世の平和」実現

天皇の願いは兎も角、これこそが大事なのです。(兎も角というのは、釈迦もイエスも同様に、目指したのはこの境地だからだとも思うということがあるからです)

「無雑純一」はあくまでその道程の通過点であるかと思います。

しかして、この無雑純一に至るのが難しい。

世の中をありのままに見るなど、我執のかたまりである人の身では本当に難しい。妬み、恨み、貪りの心が人にはあります。

そして他人の不幸は蜜の味です。

その不幸をほくそ笑む自分には嫌悪感を感じます。

無雑純一はなかなかに難しい。

それを打ち払うのが、人類忠義の拡大と、無雑純一の心かとも思います。

.
ちなみに、最近、ありのままに物を見る練習として、下記のクイズが良いんじゃないかと最近思ってきました。

もし、知らない方はちょっとした頭の体操気分にでもということで是非・・w

なかなかユニークでおもしろい出題物かと思いますw

↓  ↓  ↓

世にも面白い「ウミガメのスープって知ってる?」【栗御飯&やと編】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm33739654

当ブログは2019年5月に移転しました。旧進撃の庶民
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