12月22日(日)、シンポジウム「明治日本の文化形成における「翻訳」―音楽を中心にその意義を考える―」に参加しましたので、そのまとめ&感想をお届けします。
これは、10月26日(土)に行われた「ポスト・グローバル時代の可能性――よりよき世界秩序をどう構想するか」と同じく、施光恒氏、柴山桂太氏、佐藤慶治氏による科研費研究「世界秩序構想としての「翻訳」の意義に関する政治社会学的研究」の一環のシンポです。
会場も同じ精華学園記念館でしたが、今回は佐藤慶治氏の新著『翻訳唱歌と国民形成』の出版記念ということもあり、音楽文化が中心テーマ。 雨天のせいもあって、中野剛志氏がゲストだった前回に比べると客入りは少々さみしい感じでしたが……
研究の趣旨
前回と同じく、最初に施氏から本研究の趣旨説明。
ブレグジット、トランプ大統領、黄色いベスト運動等に象徴されるごとく、世界中でグローバリズムに対する反発が強まり、時代はポスト・グローバルに向かっている。ナショナルな単位に戻って国づくりをしていこうという機運がある中、より良い世界秩序を考える上でキーワードとなるのが「翻訳」そして「土着化」である。
近代において西欧では、ラテン語を操るエリートのものであった聖書などの知識が、各地の土着語へと翻訳され、庶民が国語で知的なことを語り合える公共空間が生まれた。
幕末~明治の日本は西洋の知識を徹底的に翻訳し、訳語を作り、既存の文化とうまく混ぜ合わせて自らのものとした。エリートばかりでなく、多くの国民のものとした。
ここで行なわれた「翻訳と土着化」は、庶民の馴染みやすい知的な公共空間を各地域に成立させる。そこには多数の一般庶民の力が集まり、各社会に大きな活力が生じる。 格差拡大・民主主義の機能不全・階層分化といったグローバル化・ボーダーレス化の問題を解決できるのは、この「翻訳と土着化」ではないか。
政治をエリートに独占させず、各国の多数の人々にとって、なじみやすく参加しやすく多様性を備えた公共空間を作る。そして自由民主主義的な近代的国づくりに役立つ。それが翻訳と土着化の意義である。その目指すところは、積極的に学び合う、公正な棲み分け型多文化共生世界であり、ネイションを軸とする世界秩序だ。
講演1「コピーとオリジナルの観点から見たドイツと日本の民衆歌謡」
続いて講演1、九州大学教授の島田洋一郎氏による「コピーとオリジナルの観点から見たドイツと日本の民衆歌謡」。30分程度の短めのものでしたが、早口で原稿を読み上げるスタイルでしたので……ちょっとメモが追いつかず。要旨は以下のサイトに掲載されているものに近いと思います。
「コピーとオリジナルの観点から見たドイツと日本の民衆歌謡の比較考察」
今回のシンポのテーマに沿う部分を簡単にまとめると以下のような感じです。
「翻訳」というのは言語を移し替えるだけの模倣的行為であって、「創作」に比べると一段劣るものと見なされがちだが、実はそうとも限らない。元の作品を模倣しながらもオリジナルなもの、従いながらも競い合う形で創造性が発揮される場合がある。この創造性の発揮にあたって大きな影響力を持つもの、それは翻訳する者がどういう教養を身につけてきたかということである。
講演2「明治期の唱歌教育における翻訳唱歌と国民形成」
今回の主役(?)精華女子短期大学講師の佐藤慶治氏の講演です。著書の『翻訳唱歌と国民形成』も参照しつつ、論旨をまとめます。
唱歌とは明治以降に作られた音楽教科のための歌である。「翻訳」の活用によって明治日本の国づくりは行われたわけだが、唱歌教育もその一つと言える。
当時の政府には、それまで藩に押し込められていた人々を意識を変え、国民意識/「日本」への帰属意識の醸成を図るという大きな課題があった。 その一環として明治12年(1879)、文部省が西洋音楽調査のために音楽取調掛を創設し、積極的に西洋音楽文化の調査、教育の整備を行った。
十九世紀から二十世紀初頭という時期は、各国が「一国民、一言語、一国家」という目標に向かって邁進した時期であったと見なせるだろう。
『翻訳唱歌と国民形成』p.20
ベネディクト・アンダーソンやホブズボームの論では、「想像の共同体」「創られた伝統」という言葉に象徴されるように、ナショナリズムや国民というものは人工的で虚構性の強いものと指摘される。
だが、社会学者のアントニー・D・スミスによれば、国民意識/ナショナルアイデンティティを形成する核になるのは、共通の祖先に関する神話や歴史的記憶などである。彼は日本について次のように言う。
明治の改革者たちは、欧米化や経済的な近代化をおこなおうとするさい、古代からある日本の文化や伝統にも気配りをして、両者のあいだのバランスを重視しました。彼らは近代化による諸改革を実行するにあたり、天皇崇拝と、神道に依拠した昔より慣れ親しんできた諸々の儀式との大切さを訴え、これによって、諸改革を強化しました。(中略)日本はたしかに、歴史的過程で日本文化の連続性を重視し、同時に近代的なネイションを発展させるという経験をしました。
『ネイションとエスニシティ』日本語版への序
唱歌は日本の伝統音楽とは異なる西洋の音楽を取り入れて造られたものだが、これまた近世以前の日本文化に基づくものであった。
1881年から1884年にかけて編纂された最初の官製唱歌集『小学唱歌集』においても、全91曲中81曲が欧米の民謡や讃美歌からの翻訳ものであったが、歌詞においては単純な翻訳とはなっていない。
讃美歌における神への愛と献身は、明治日本での天皇への帰依・忠義に置き換え、徳育を目指すものとなっている。キリスト教的な内容がうまく翻案され、日本の文脈に沿って歌詞が書かれているのである。(例 「祝へ吾君を」http://www.j-texts.com/meiji/shoka.html 第八十八)
また、季語を入れた翻訳唱歌も見られ、春夏秋冬や自然を描いた歌詞も多い。(例 「燕」http://www.j-texts.com/meiji/shoka.html 第三十八)
徳育という点からいうと、男子は天皇陛下の勇士、女子はそれを育む良妻賢母というジェンダー観を伝えようというものが多い。(例 「母のおもひ」 http://www.j-texts.com/meiji/shoka.html 第五十七) その一方で宮廷に仕えた紫式部や清少納言を題材とした「才女」(http://www.j-texts.com/meiji/shoka.html 第五十六)という歌もあります。
脱線:良妻賢母(筆者感想)
ちょっと講演の内容から脱線しますが、良妻賢母というのは極めて尊敬に値するものだと私は思います。家庭を穏やかで快適で文化的なところとし、夫や子供の健康を支え、明日への元気を与える。併せて地域社会の安全や文化を担保する。お金を稼ぐ以上に大切な存在であって、そのような方が多く現れるよう、政府は策を尽くすべきです。
女性が働かざるを得ない、働くことを心から望んでいるわけでもない女性が安い労働力として利用され、本人も家族も疲弊するる……そんな状況を是とするようなのはダメですね。積極財政で景気を良くし、夫の収入のみで十分な生活が送れるようにすべきです。脱線終わり。
講演2のまとめ(続き)~翻訳唱歌リサイタル!
やがて西洋音楽風の作曲が十分にできるようになり、1911年から文部省著作の『尋常小学唱歌』が編纂発行されたが、ここに収録された曲はすべて日本オリジナル。翻訳唱歌期の徳育・自然美・ジェンダー観といったものも引き継がれており、唱歌の到達点とも言える。
そして「ふるさと/故郷」(http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/furusato.htm)などが代表であるが、ここに収録されたものは今でも日本人の共通文化となっている。 日本人なら誰もが一緒に歌えるという点で、現代日本においても非常に重要なものである。
続いてのパネルディスカッションでは、ここまでの講演者に加えて柴山桂太氏ほか3氏が登壇して、日本の音楽文化について談論が交わされました。(長くなるのでここのまとめは割愛します)
最後は、バリトンの声楽家でもある佐藤慶治氏のリサイタル! 翻訳唱歌の原曲と翻訳曲計10曲以上が歌われました。皆が知っている「ふるさと」は会場一体の合唱。講演で述べられていた、「唱歌は日本人の共通文化」というのを実感した次第です。ポストグローバリズム、国民の連帯・助け合い/ナショナリズムの復権が求められる今、唱歌の力はその助けとなるものと思えます。
佐藤さんの本、クライテリオンの今月号にも記事が載っていましたね。
読んでみようと思います。
歌も歌われるんですね。