ラドヤード・キプリングの海山物語 「サラ・サンズ号の炎上」その2|火薬の樽を海へ投棄せよ!

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焼け残ったサラ・サンズ号の後部

(訳者より
 1857年、インド大反乱を鎮圧すべく、陸軍第54大隊はイギリス本国を出発しました。ところが彼らの乗った4本マストの蒸気船サラ・サンズ号の後部で火災が発生します。外国人中心の船員たちがまったく頼りにならぬ中、兵士たちは決死の消火活動を展開します)

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火災に打ち勝つ

 11月12日の午前3時ごろ、水をポンプで汲み、バケツで運び、かけて濡らし続けて、火災に打ち勝つ希望が見え始めた。9時までには、船の内部から上がって来るのが煙から蒸気にかわったと見えた。

 そして昼にはボートに呼び掛けて、損傷の状況を検討する。ミズンマスト(後檣)から後ろには、船と呼べるものは何もなく、ただ骨組みだけが残る。それはまったく蒸気を発するくず鉄のカタマリだった。曲がってねじれた鉄筋を越えて、黒く脂っぽい水が二十フィートの高さを流れ落ち、船の真ん中では、全部で四つの巨大な水槽が転がって行ったり来たり、むき出しの舷側にぶつかって大きな音を立てる。

 さらに、――これは、火災の熱が収まるまでわからなかったことだが――火薬の爆発で左舷船尾に穴があいていた。船が揺れる度に、そこから新たに海水が入って来る。4本のマスト(帆柱)のうち、残っているのは一つだけ。舵頭材はすっかり剥げて真っ黒、ひどい状態で崩れた甲板梁の間にあった。

 この大破した状態の写真を見ると、火事の後で内部を焼き尽くされた劇場そっくりだった。それも消防士が最低の仕事をした場合の、にである。

ポートルイス港へ

 11月12日の間ずっと、兵たちはポンプで水を汲み出した。汲み上げた時と同様の熱心さだった。冷えて触れられるようになるとすぐ、水槽のタガを締めて、注水した。船尾の穴をハンモック、帆布、厚板で塞ぎ、さらに帆布で覆う。

 次いで、鉄棒を舵頭材に据え付けて固定した。足下の穴の上に渡した厚板の片側に6人の男たちが座り、反対側にも6人で、良しと言われるまでロープで鉄棒を引っ張る。こうして、でき得る限り最高の舵の把手を作り上げたのだった。

 11月13日、いまだポンプを使いつつも、唯一のマストに帆を張って――サラ・サンズ号がマスト四本で出航したのは幸いだった――貿易風を利用して島国モーリシャスを目指す。

 キャッスル船長は、海図1枚に羅針盤1つを手にして、以前船室があった辺りに天幕を張り、そこにこもった。そして12日間を経て、とうとう陸地が見えた。

 船の平均速度は、時速およそ4ノット。モーリシャスのポートルイス沖に来るとすぐに、スコットランド出の技術者フレイザー氏は専門家として、エンジンを作動させて港へ入りたいと願ったが、それも当然である。

 エンジンの軸が回り始め、船体を恐ろし気に震わせると、兵士たちは船にあいた暗い大穴をのぞき込んだ。大型船の上甲板から、むき出しのスクリュー軸が動いているのが見えるということを理解できるなら、サラ・サンズ号がどうなっているのかわかろうというものだ。日中はポートルイスの沖で待機していたが、危うくサンゴ礁上でバラバラに砕けるところだった。

 とうとう、火災で焼け落ち、骨組みばかりの蒸気船が入港して来た――汚れきり、男たちの服は脱ぐ気にもならないほど黒焦げで、空きっ腹を抱えている。だが、一人の命も失われてはいなかった。

 ポートルイスは街を挙げて、市場で歓迎の宴を設けてくれた。フランス系の住民たちは、彼らならではの魅力的な丁重さを示したのだった。

船員たちへの裁き?

 しかしながら、「船を破滅へ追いやった」船員たちがどうなったのかについては記録がない。ある記事に「報復の時ではなかった」とほのめかされるのみである。

 だがおそらく、どうにか入港するまでの12日間に、兵たちは彼らなりの裁きを下したことであろう。船尾に居室を得ていた者たち、将校や女性は持てるものをすべて失った。前部で過ごしていた仲間たちが、彼らに衣服や、それを作るための帆布を貸し与えた。

 12月20日、彼らは全員クラレンドン号へ乗り換えた。英雄たちにとっては貧弱な船である。この船は苦力(※)用とされていたのであって、ブラジル貿易で乗せられてしまったムカデやその他の動物がいっぱい、エンジンはしょっちゅう故障する。さらに、その船長はハリケーンのさなか、風雨と心労で死んでしまった。おかげでクラレンドン号がフーグリー河口に着く前に、1月25日が来た。
(※ アジア系の移民労働者)

アメリカ船との邂逅

 この時には――おそらく多くの人が、それは火災同様に深刻だと考えるだろうが――兵たちのタバコが切れてしまった。それで、カルカッタへ遡上する途中のケジャリーに停泊していた、アメリカ船のハムレット号、レクラン船長に出会うと、将校たちはボートを漕いで近づき、売ってもらえるタバコがないか尋ねたのである。

 彼らがこのスキッパー船に自らの冒険の話を聞かせたところ、レクラン船長はこう言った。

「いやはや、よくぞ私のところに来てくださった。
タバコならいくらかありますぞ。そちらは何人おられる?」

「300人です」と将校たちは答えた。

 そこでレクラン船長は最上等のキャベンディッシュ(※)400ポンドを、将校用のマニラ葉巻一千本と共に引き渡し、代金は一切取らなかった。アメリカ人たるもの、船が難破した人たちから受け取ることはしない、ということだった。
(※ 圧縮タバコ)

 その時点で彼らは難破していたわけではなかったが、レクラン船長にとっては明らかに、十分すぎるほど難破していたのである。というのも、彼らがいざ支払おうと再びボートでやってきた時、船長はただグロッグ酒(※)を渡すばかりだった。記録によれば、「我々が船に戻る頃には、暗くなっているだろうから」とのこと。
(※水割りラム酒)

 この後、「我が楽隊は「ヤンキー・ドゥードル」(※)」を奏し、青い灯火をつけ、信号弾を撃った」――この宵のケジャリーは陽気だったに違いない。
「我々が力を尽くしたのは、ただ我が従兄弟アメリカ人に、我らの受けた親切への感謝を伝えんがためであった」
(※独立戦争時の米軍歌)

 最終的に、総司令官が陸軍の全連隊の前で読み上げる一般命令を出すこととなった。

 彼は「第54大隊の振る舞いは、最も称賛さるべきものであり、結果的に、兵士が置かれ得る極めて憂慮すべき危険な状況にあって、服従すること、厳に命令に従うことの利点すべてを見事に表したことを見て」喜んだのである。

 これすなわち、この物語の教訓であろう。

(「サラ・サンズ号の炎上」完)

「最後の踏ん張り」

どうして我らにわかるだろう、あふれんばかりの川のほとり、
ぬかるみで苛々しつつ牡牛たちが待つところ、 まるで永遠を待つの感があり
氾濫が終わることなど、どうして我らにわかるだろう?
濁流の音は変わることなく――
より大きく荒々しく、洪水は吠える
けれど我らは感じ取る、水流は落ちていく、落ちていく
猛るほどに水流は、力衰える。
言葉もなく静かに、漂うごとく、
車輪に鎖をかけられた荷馬車が滑って回る
しっかりしろ! 最悪の時はもはや去りゆく
そう――指導者たちを急き立てろ!――我らは耐え抜ける――耐え抜ける!

どうして我らにわかるだろう、港を前に濃霧に囚われ
係留したまま助けなく、桟橋まで1マイルはあろう、
1週間も打ち続く 夏の暑さに我らは包まれ――
霧が晴れゆくことなど、どうして我らにわかるだろう?
視界を遮る大気には 裂け目の一つもなし、
けれど湾を巡って一つまた一つ、 姿の見えぬキャプスタン(※)が共にカチカチ音を出し、
入出港に備え待つ。
長旗がすすり泣く――疾風が我らを見出した――
ヘッドセイル(※)がはためく 薄れゆく靄の中を。
船全体がそれに続く――我らの周囲は開かれた――
掃き清められた海が呼ぶ 「いざ行け、汝の道を!」
(※錨の巻き上げ機)(※前帆)

どうして我らにわかるだろう、うち続く激戦の時、
古く倦んだ前線は、我らの切って破れぬところ、
我らは閉じ込められたか、長の年月、
彼らが屈しつつあるなどと、どうして我らにわかるだろう?
敵の掃射に凪はなく 太陽のほか何物も移ろわず。
けれど我らは感じ取る、彼らは疲れていく、疲れていく、
されど我らは言えるのだ、もはや頃合い、彼らは逃げ出す。
浮足立つものがあると、我らが怪しむうちに
彼らの中央塹壕はもぬけの殻だ、
役にも立たぬ彼らの両翼軍が隠れるその前に
我らの銃砲は退却するところを撃ち払い、敵は総崩れだ!

(訳者より
上記の詩「最後の踏ん張り」、MMTという援軍を得て反撃の実を挙げつつある積極財政派を鼓舞するような感じですね。細かな部分はともかく、反緊縮というテーマを掲げるれいわ新選組も勢力を拡大しつつありますし。もっとも、まだまだ敵は大多数の強敵ですから、油断なく少しずつしっかりと地歩を固めていく日々ですね……

次回からは第一次大戦に向けて、キプリングも関わって設立された「ライフルクラブ」にまつわるお話、「ジョーンズ青年の寓話」です)

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