堺市の市長選において、維新の候補者が当選した。かなり接戦だったとの事だが、まぁ負けは負け。
これで、維新の掲げる「大阪都構想」とやらが、大きく前進することになる。なんともウンザリする話である。
さてツイッターで一時話題になった、かくゆう私もそれで知ったのだが、なんでも関西のTV番組において、「ダメダメ政治家ランキング」という企画をやっていて、まぁそもそもそれを選ぶ奴らがお前が言うなレベルの奴らばかり、という話なのだが、其の10位に「れいわ新選組の山本太郎」が選ばれていた。
その中で、れいわ新選組が掲げる政策「奨学金徳政令」、「消費税廃止」、「最低賃金1500円」を取り上げ、ある芸人がこうがなっていた。 「無理やないですか。一億の寄附が集まればそれで出る。それって詐欺にならんの。」
あのね、詐欺っていうのはね。大阪に住む人達に、自分達は大阪生まれの大阪育ちの政党です、なんて、まるで高校野球のように地元愛をかき立てながら、大阪市を解体し、大阪都にすれば、なにかとってもいい事があるかのように、具体的な話はせず、イメージだけを大袈裟に語り、それをメディアや(あんたのような)芸能人を使って宣伝し、その実、かなりの確率で、大阪に住む人たちの生活は悪くなるって事を黙っている事だよ。
さて、「平成の大合併とは何だったのか 合併検証の課題」という、2009年当時、福島大学の今井照教授が書かれたコラムが全国町村会というサイトに掲載されていた。短いモノだが、「平成の大合併」なるものが、どういう経緯で、どういう特定の人々の意図の上で進められたのかがよく分かる。
https://www.zck.or.jp/site/column-article/3863.html
いくつか取り上げてみる。
今回の合併について調べていくと、多くの誤解によって成り立っていたことがわかる。単純なことからあげると、「合併すれば地方交付税が減らないので、合併したほうが得」とう自治体側の誤解がある。合併前に首長が市民に対してそのように説明していたこともあったし、合併後は「減らないはずだったのに減らされた」という発言もよく聞く。 あらためていうまでもなく、合併すれば地方交付税はむしろ減額される。旧市町村が交付されていた総額を下回るからこそ、特例的に期間限定で激変緩和措置がとられるのである。このことに限っていえば、合併しないほうが合併するよりは得である。また、ほとんどの場合、合併後10年間は現状維持という計算になるはずであるから、少なくとも、今の時点では合併による減額は生じていない。実際に地方交付税が減っているのは 合併以外の要素であって、これは合併しようがしまいが同じだ。 こういう誤解で心配なのは、合併してから 15年後、合併特例措置がなくなったころに生じるにちがいない混乱である。シミュレーションしてみると、合併した自治体の地方交付税は、合併15年後に少なくとも3割程度は減額される。その時期は合併特例債の償還時期のピークにあたる。いずれもほぼ確実にやってくる。このころになれば、合併を決断した当事者たちは第一線を退いていることだろう。残されたものがその重荷を背負うことになる。
つまり、合併なんぞしちゃうと、先々地方交付税は減額される、というコトだ。
大阪都構想に賛成する大阪の人達の誤解もそういうトコロにあるのではないか。大阪市の財源を大阪都が吸い上げる。これだけ聞くと、市とか府とか言ってないで、大大阪として、みんなでやっていこうよ!という、イメージとしては非常にポジティブな、地元愛に溢れた語り口だが、結局、先々交付税が減額されて合計金額が下がる。つまり、大大阪、みんな仲良く貧乏になるってことだ。
このコラムの中で非常に考えさせられたのは、この一文だ。
今回の合併が国政の政治家によって唱道され、地域内の企業家グループによって後押しをされたというのは、ほぼ間違いのない事実だ。
彼らが、なぜ、後押ししたのか。 まず第三の可能性から考えてみる。地域社会には合併騒動によって得をした人たちがいる。しばしば「合併バブル」と呼ばれたが、「合併バブル」は合併後に来るのではなく、ほとんどは合併協議過程の「合併前」にきている。これまで貯めてきた積立金を合併前に取り崩し、地方債をたてて事業を実施し、合併後の自治体にその債務を先送りする、というのが合併自治体の一般的な行動だからである。 債務を背負うのは新しい合併後の市民だが、当然のことながら、合併後の市民は合併前の市民によって構成されている。好意的に考えれば、市民にとっての損得は中立的だが、その一方で事業は既に実施されており、その支払いは済んでいるわけだから、得をした人たちがいる。つまり、このような人たちに支持される国政政党が合併を推進したということが考えられる。こう考えれば、合併が行財政の効率化に繋がるというよりはむしろ、合併こそ最大のムダ遣 いといえる。
地方行政の効率化という美辞麗句の陰で、揺れ手に粟で得をした者達がいたのではないか。彼ら自身も、そのような醜い思惑から、あえて目を逸らし、美辞麗句で以って自己暗示を掛けつつ、それらを推進したのではないか。そういう疑念はぬぐいようがない。
今井教授のコラムはこの一文で締めくくられている。
大規模化すれば効率化するという素朴な誤解が道州制論議でもみられる。政治的、市民自治的な側面からみれば、合併には一理もないが、効果があるとみられた経済的合理性や効率性からみても合併には何の一利もない。これらのことは学問的世界では常識レベルであり、昭和の大合併の検証時にもそのように主張されてきた。なぜ同じ過ちを何度も繰り返すのかといえば、やはりみんなの犠牲によって誰かが得をしているのではないかという疑念が拭えない。
大阪都構想も、あらためてそういう視点から考えてみるべきだろう。