基本的に、主権通貨を持つ国、つまり通貨発行権を有する国では、あくまで理論上は財政支出は無限に可能、と言われます。
確かに、通貨発行権がある以上、財源は必要ない、というか問題になりません。
何しろ通貨、すなわちお金自体を無から作り出すことが出来るわけですから、それも当然のように思われますが、果たして本当に“無限に可能”なのでしょうか?
現在、財務省や財政均衡を絶対視する緊縮派が権力を握り、本来ならば必要な財政支出すら削減、あるいは抑制して、国民生活を貧困化させているのは一部の人には周知のことですが、残念ながら多くの人はそれすら知りません。
反緊縮という政治運動は、言葉通りに意味を捉えるなら「必要な分の支出すら削減・抑制する緊縮財政に反対する」という意味であり、無制限の財政支出を要求するような意味にはなりません。
しかし、一部の反緊縮派は、あたかも“無制限の財政支出を要求している”かのように発言し、緊縮派のみならず、何も知らない“一般的な”ノンポリ層にまで懐疑的に見られてしまっています。
その懐疑的にみられる要因には、確かに“国の借金デマ”に騙されてしまっている、ということもあるでしょう。
しかし、本当にそれだけでしょうか?
本来、必要な支出を要求するだけの政治運動であるはずの反緊縮運動が、“無制限財政支出要求運動”として世間に認知されてしまうことで、国の借金デマ云々関係なく、一般ノンポリ層に本能的な不安を抱かせてしまってはいないでしょうか?
“素人にも解り易く”を口実に、反緊縮運動を“無制限財政支出要求運動”として世間に認知させ、一般素人衆に懐疑心、緊縮派に藁人形を提供し続け無駄に議論を炎上させる輩もいる以上、そのような不安、あるいは誤解の解消も必要なのではないでしょうか。
そこで今回は、財政制約、財政規律という問題に関して、財政均衡論的視点ではなく経世済民的視点、あるいは国民の生活安全保障上の観点から、論じてみようと思います。
現状、私がツイッター上で現在確認できる財政規律・財政制約に関する議論は、以下の三つです。
1.財源に基づく財政制約(財源論)
2.インフレ率に基づく財政制約(インタゲ論)
3.供給能力に基づく財政制約(供給制約)
それぞれについて、以下に論じていきます。
財源に基づく財政制約(財源論)
財政支出は、財源によって制約される、と考える議論です。
主に税収を財源と捉え、「税収(歳入)の範囲内において、財政支出がなされるべき」とする考え方で、財政均衡論の元となっているものです。
いわゆる“貨幣のプール論”とは、この財源論のことを指すと言ってよいでしょう。
基本的に、財源によって財政支出を制約される国というのは、主権通貨を持たず共通通貨を流通させている国、例えばEU諸国のような国、または金本位制の国、そして固定相場制を採用して他国の通貨に自国通貨の価値を依存しているような国家がこれに当たります。
共通通貨国は、そもそも自国に通貨発行権がありませんから、自国に保有する共通通貨以上の財政支出をするためには国債を発行し、共通通貨を余分に保有している他国や投資家、銀行などの金融機関から通貨を調達しなければなりません。
金本位制の国も、金(Gold)が自国通貨価値の裏付けになっている、すなわち通貨と金の交換が義務付けられている兌換通貨しか発行できないため、自国が保有する金(Gold)の量以上には原則的に通貨発行は出来ません。
もしする場合は国債を発行して、金(Gold)を保有しているところから金(Gold)を借りることで、通貨を発行する必要があります。
そして固定相場制の国も、金本位制と同じく他国通貨が自国通貨価値の裏付けになっている、つまり自国通貨と他国通貨の両替が義務付けられています。
例えばドルペッグ制(ドルを自国通貨相場と連動させる制度)を採用している国では、自国通貨とドルの両替が義務付けられています。
なぜかと言えば、いつでもドルと自国通貨を交換できるからこそドルと自国通貨が等価と見なされるからで、もしドルと自国通貨が交換できなくなれば、ドルと等価とはみなされなくなってしまいます。
それゆえに、保有するドル(他国通貨)が底をつけば通貨は事実上発行できなくなってしまうわけで、もし保有するドル以上の財政支出をする場合にはやはり国債を発行して、他国や民間銀行からドルを調達してこなければならなくなります。
国債財源論
さて、ここまで見てきて分かる通り、実は“国債を財源とする”といった場合も、この財源論に含まれます。
日本の場合、通貨発行権を持つ主権通貨国であり、なおかつ変動相場制を採用している上に、100%自国通貨建ての国債を発行することが可能な国家なわけですが、日本において国債がどのように運用されているのかと言えば、通貨を発行するプロセスの一部に国債発行という過程が含まれているに過ぎません。
いわば有利子の通貨(負債)を発行しているのと同じ、つまり国債も無限に発行できるというわけで、別に財源というわけではありません。
細かい話ではありますが、国債を財源とする議論というのも、国債の買い手がなくなってしまうと財政支出ができなくなってしまうという話になってしまいます。
実際は、日銀がある以上買い手がなくなるなどということはあり得ませんが、国債発行がなくても政府小切手の発行から銀行預金(マネーストック)の創出、日銀による政府小切手と日銀当座預金との交換によって財政支出は可能なわけですから、国債財源論というのもあまり意味がないと言えるでしょう。
端的に言えば、そもそも通貨発行権のある政府に財源など不要であり、財源などはそもそも考える必要などないのだから、財政制約にはなり得ません。
国債発行に制約がある云々という国債財源論争も、無意味とは言わないまでも些末な問題と言わざるを得ないでしょう。
インフレ率に基づく財政制約(インフレターゲット論)
特定のインフレ率に達したときを財政支出の限界と見做し、それ以上の財政支出は不可能であり、インフレ率の上昇如何によっては削減もあり得るとする議論ですが、そもそも財政支出額とインフレ率の間に、法則的な因果関係があるわけではありません。
逆に、オイルショックなどのように外的要因によるインフレの場合、資源価格高騰に基づく物価高騰による民間の消費の冷え込みで、供給能力である企業はモノが売れずに打撃を受けてしまいます。
そこで同時に政府まで消費を抑制すれば、買い手の居ない企業は潰れるしかなくなってしまいます。つまり、供給能力が毀損されてしまうことになるのです。
つまりインフレ率の変動に合わせた財政支出額の増減は、企業を潰し、失業者を増やして雇用を不安定化させ、賃金低下を招く要因になりかねない危険なもので、やはり財政制約として妥当ではないと考えられます。
供給能力に基づく財政制約(供給制約論)
国内の供給能力の限界に応じて、財政支出が制限されると見なす議論です。
原則的に、財政支出は何らかの公共事業、例えばインフラの建設や整備、各種公的事業(教育・行政サービスの提供等)を通じてなされます。
ゆえに、それらのモノやサービスの供給主体が提供可能な分以上の財政支出は理論上不可能と言えます。
もっとも、例えば公共事業の単価を引き上げるなどで、無理やり財政支出額を増やすことは可能ですが、これは民需を圧迫して物価を不当に高騰させかねないため、やるべきではないでしょう。
インフレ制約と供制約の違いは、前者が実際の物価上昇という結果を受けて制限するのに対して、後者は最初から物価上昇を視野に入れて制限を掛けるため、不当な価格による民需の圧迫という事態を避けることが出来るし、外的要因によるインフレであっても供給能力保持の観点から財政支出を制限することはない、という点です。
制限の掛け方も、全体の額ではなく単年の支出額であって、供給能力の増加によっては増やすこともあり得る、あくまで目安程度ものとなります。
つまり供給制約で、適度な価格で供給能力に見合った財政支出を行う以上、国内の供給能力を超える財政支出は事実上不可能となりますので、積極財政を前提とした財政制約としてはこの3つの中では供給能力が最も妥当と考えられます。
緊縮派による財政制約論の誤謬
当然のことながら、この三つの議論は全て「財政を制約するモノ」として、緊縮派によって緊縮財政の論拠として挙げられています。
前二つ、財源論やインフレ制約は論外として、供給制約論も緊縮派がよく主張するものではありますが、彼らが主張する論拠の多くは人口減少による供給能力の不足であり、設備投資による生産性向上を無視した議論です。
また現在、供給能力の毀損が要因となり、自然災害の復旧作業が遅れているという問題も確かに存在します。
しかしながら、現在の供給能力毀損はそもそも緊縮財政(財政支出増加の抑制)が原因であって完全なマッチポンプであり、「今まで緊縮財政支持して供給能力の毀損を放置どころか助長してきたお前らが言うなよバカヤロウ」以外の何物でもありません。
財政における供給制約の安全保障・経世済民上の利点
供給能力に基づく財政制約(上限)の生活安全保障上の利点は、景気変動に応じて計画の前倒しや新規事業計画の開始などの目安になる、という点です。
不況期の余剰供給能力に仕事を与え、供給能力の維持のみならず強化すら促進しうる、ということです。
例えば大規模な公共事業等では、供給制約に基づいて民需とのバランスを考えた年次計画などを立て、その年に支出される額が決めるとします。
好況期から不況期になったとき、民需が減る分供給能力が余ってしまうわけですが、余った供給能力を放置すると企業が潰れて供給能力が減ってしまうので、計画を前倒しにしたりして単年の政府支出を増やせば、需要が維持されて景気変動は抑制(スタビライズ)されます。
好況期に入り、民需が再び旺盛になって来たら、再び計画を見直して、供給能力を民需に振り向けることも可能です。
場合によっては政府支出を絞ることになるかもしれませんが、不況期にもインフレ率が維持されているなら絞れないかもしれませんし、供給能力が増えていればそのまま支出額を維持することになるかもしれません。
つまり本来の供給制約は、緊縮派のアホな議論を論外として、経世済民的視点で見るならば、景気変動を抑制しつつ、不況期を大規模公共事業や研究開発投資を政府主導で大きく進める大チャンスに変える目安となり、インフレ率などに関わらず供給能力の維持・強化は元より雇用や賃金の安定に寄与するもの、と言えるのです。