大相撲があります。
その大相撲ですが、すべての力士が勝ち越せることはできるのか?
競技としてみた場合、星の奪い合いをするのですからすべての力士が勝ち越すことは無理なのではないでしょうか。
誰かが勝ち越すということは、誰かが負け越すことを意味する。
誰かが勝ちという白星を得るということは、誰かが負けという黒星を負う事。
それは、「誰かの黒星は、誰かの白星」といえると思います。
これは経済において「誰かの負債は、誰かの資産」と同じことなのでしょうか?
誰かが負債を負うからこそ、誰かが資産を得ることができる。
通貨という負債、つまりマイナスを政府に負わせる事ができたら、対となる国民や民間は資産・金・貯金といったプラスを手に入れることができるのだ、と。
それはその通りだと思います。
しかしそれが正しいのなら、その逆もまた正しくなるのではないでしょうか。
それは、「国民に黒星という負けを押し付けることができたのなら、政府は白星という勝ちを手にすることができる」、です。
『誰かの負債は、誰かの資産」の正体1』
政府に負債を押し付けることができたなら、国民は資産を手に入れることができる。
国民に負担を押し付けることができたなら、政府は勝ちを手に入れることができる。
どちらも正しいとなってしまう。
なら、どちらが正しいのか白黒つける。
どっちが負担という黒星を負うのかを決めなくてはいけなくなる。
では、白星黒星を分けるのはなにが必要でしょう。
さきほど述べた相撲を競技としてみたなら、白黒つけるのは試合や勝負ですね。
勝負を別の言葉でいうのなら「競走」と言えると思います。
競走をして勝ち負けをきめる。
では、経済で競争を提供するのはなにか? 市場です。
市場での競争を活発にし、勝ち組と負け組を作り出す。
市場で大事なのは平等で自由です。
なので、政府と国民が同じ土俵に上がり自由に競いあうようになる。
たくさんの金をもった企業と政府が競争し勝ち負けを決め、負けたほうは勝った方に従う。
政府と国民が競争勝負をして、負けたほうは勝った方のルールに従う。
一番負けた弱い奴が、すべての負担を背負わされる。
そんな競争をその市場を世界規模で行おうとすることをなんというのか? グローバリズムではないでしょうか。
政府も国民も企業も、グローバリズムという競争に投げ込まれる。
いえ、自ら飛び込んでいく。
そう、経済において「誰かの黒星は、誰かの白星」というのなら、それは競走を必要とし市場を求めグローバリズムを過激に広げようとしてしまう。
黒星白星を別の言葉で置き換えてみましょう。
それは、「誰かを負け組にさせることで、誰かが勝ち組になれる」、と言えるのではないではないか。
競走で白黒つけ勝ち組と負け組を作り出そうとする。
それが「誰かの負債は、誰かの資産」の正体1、なのではないでしょうか。
他人に負担を負わせることで、自分が利益を得ようとする。
誰もかれもそう考えることが当たり前になり、そう行動するのが良い事になっていく。
『「誰かの負債は誰かの資産」+「返済しなくてよい負債」=』
それとも、政府は国民の為にあるのだから、政府が負担を負うのは当然なのでしょうか? 政府を負け組にするのが正しいのでしょうか?
逆に、国民は支える為守る為なんの助けもなく孤独に重荷を負わされ、一人また一人、一店また一店、一社また一社と家庭も店も会社も潰されていくのが当たり前なのでしょうか?
国民を負け組にさせるのが正しいのでしょうか? どちらが正しいのでしょう?
政府が負債を負うといっても、それは返さなくてよい負債なので実質政府の負担にはならない。
国民はその裏で資産を得るのだから、負担にならない。
誰の負担にもならない。
誰も負け組にならない。
だから問題ない?
デフレであるなら政府が負債を負って通貨を発行しても、物(供給)余りなのだから政府の負担にならず、国民も負債の裏で資産が増え両者ともに利益があるのかもしれません。
「デフレで居続ければ」両者ともに責任を負わずに蜜月に浸っていられる。
ではインフレになった場合は?
返済しなくてよい負債なので、政府には負担も責任もない。
国民も資産を得る側なのだから、負担を負わないし負いたくもない。
誰もその負債(通貨)に対して、なんの責任も負おうとしない。
そんな無責任な考えが空気となり社会に蔓延していってるのかもしれません。
どんなおかしなことを言ってもいい、矛盾したことも言ってもいい、言った言葉を守らなくてもいい、相手を騙せ、嘘をつけ、間違った数字を正しいといいはる。
だまされる奴が悪い、今の自分の金になることだけを都合のいいことをその場その場でしゃべればいい、そんな空気が生まれていく。