引き裂かれる言の葉~個人の負債と政府の負債~ (前編)

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 負債、この言葉をめぐっていろんな話があります。
 その中で、個人の負債と政府や国家の負債は全然違う。
 一緒に考えてはいけないといったセリフを耳にしました。
 それはいったいどういう事なのでしょう。

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『個人と政府』

 負債や借金と聞いたら、返さなくてはいけないものだと考えますね。
 それが当たり前だと。
 しかしそれは個人の考えで、政府という大きなものには当てはまらない。
 政府は自分で通貨という金を作れる。
 個人の負債は返さなくてはいけないが、政府の負債(通貨)は返さなくてよい負債だ、と。

『ずれていく言葉と世界』

 負債という言葉が個人と政府ではまるで違う、ということが正しいとなるとどうなるのか。
 それは、政府の言葉と私たちの言葉が同じ言葉を使っていても、なんか違ってくるということ。
 かみ合わなくなる、それでよいと認めるということではないでしょうか。
 例えば、政府が「国民を守ります」と言ったとします。
 でも、実際やったことは大半の国民を助けず放置する、どころか逆にいじめ給料はあがらず追い詰め苦しめ、勝ち組と負け組を作りあげ分断させるだけ。
 外の人を呼びこみ外の人に仕事を与え外にばかり金を使い与え内側の国民はほったらかし。
 それについて、
 
「国民を助けると言ったじゃないか! 生活を経済を良くしてくれるのではなかったのか! 国民を守ってくれるのではなかったのか!?」
 
と問い詰めたとしても、政府はこう返せばよいのです。
 
「いや実は政府のいう「国民」とはあなたが使う「国民」とは中身が違うのです。わかりやすく翻訳すれば「上級勝ち組外国民(勝ち組外国人)」、もしくは「上級勝ち組国民」のことなのです」

 と言われてもいい返せない。
 なぜなら、「負債」という言葉を政府と個人とでは同列に考えてはいけないというのなら、「国民」という言葉も同列に考えてはいけないのではないでしょうか。
 政府が「国民」と言っても、その中に自分もあなたも含まれていないかもしれません。

『発する発行』

 言葉をいうことを「言葉を発する」と表現することがあります。
 そして、自分のいった言葉は基本的に守らないと、その人が発した言葉は誰からも信用されなくなる。
 言ったことが自分に返ってきたとき、それをやっていなかったら誰からも信用されません。
 言いっぱなしで放置ではなく、自分の言ったことを実行する。
 それは自分の発した言葉の責任を果たし信用を保ち、言葉を回収するということ。
 
 政府が通貨を作ることを「お金(通貨)を発行する」と表現することがあります。
 政府が通貨を発行する。
 そして、通貨は負債だという。
 政府が発行した通貨を回収し、通貨の責任信用を保つ。
 そうしないと、その通貨は信用されなくなっていくのではないでしょうか。

 では、通貨の責任信用とは何か?
 それはその通貨が使える、そのお金で買いたい物が買える。
 そして作ってくれた物を買えるだけのお金、つまり所得給料をもたせる。
 そのために買えるだけの物作りの力をつける、つけさせる、保証をするということではないでしょうか。
 物が買えないお金(通貨)なんて欲しがらないと思います。
 別の言葉を使うと、通貨はお金で需要とも表現されます。
 その需要(通貨)を満たすだけの物作り、つまり供給の力を持つ持たせることといえる。
 しかし、政府に限っては自分が作ったお金を自分で借りて自分に返すようなもの。
 それは返さなくてよい負債だという。
 つまり、政府自身が発行した「通貨=負債=返す義務=返すために働いて物を作る」は守る必要がないというのならば、政府は自分の発した言葉の信用ならぬ自分の発行した通貨の信用、つまり通貨(需要)にみあった物作りの力を経済を維持する必要も責任もない、と言っているようなものではないでしょうか。

『誰が負わされるのか?』

 政府が発行する通貨は、「返済しなくてよい負債」でありその通貨の価値を政府は守る必要がない、というのならいったい誰がそれを負わされるのか。
 政府がやらないというのなら、国民がやるしかなくなる。
 国民だけに押し付けることになる。
 通貨の価値、通貨が使えるとは物が買えるということ。
 そのためには物がなくてはいけない、物が作られなければいけない。
 国民が個人個人で出来ることとは? 
 自分の給料や所得を得るために、物を作ることサービスを行うことをなんというのか。
 仕事ですね。
 仕事で「自分の金」を手に入れる物作りやサービスを他者と競う。
 それをなんというのか。
 「競走」ではないでしょうか。
 だから、競争を激しくすればそれだけみな働き、動くようになり物が作られ通貨の価値は保たれるはずだと。
 さらに金の価値を高めるには、物が余っているほうがよい。
 なら、競争を激しくすればよい。
 その競走を提供するのは、市場です。
 その市場は平等で自由を必要とするのだから、規制をどんどん緩和し自由にさせるのが正しいとなる。
 外から給料の安い人を招き入れ、内にいる国民と競走させればいい。
 働ていない老人男女子供さえも働かなくてはいけない状況に押しやり競え、奪い合え、潰し合えと競走を激しくさせる。
 内で安穏としている国民に対して金を出し渋り、国内だけで働いていてはもうまともに生活できるだけの金は手に入らなくさせ、「打って出るしかない」と脅し、外に追い出し激しい競走させるように追いつめる。
 そうやって国民にムチを打ち競い合わせ、国民だけに通貨「円」の価値を維持させるようになる。
 責任を負わせようとするようになる。
 押し付けることが、正しいことだと考えるようになる。

『「国民を守る」というからっぽの言葉』

 通貨という負債は、政府は守らなくてよい、しかし個人は守らなくてはいけないとなると「国民を守る」という言葉も、国民、いえ個々人だけがバラバラに負わされ、押し付けられることになっていくのではないでしょうか。
 通貨(負債)をなりふり構わず過激に回収することだけが、経済を財政を守ることになり、ひいては国や国民を守ることにつながるのだという名目で、えんえんと増税され所得給料を減らされ続ける。
 国民を守るためという建前で、移動を制限され、営業時間を短くさせられ、仕事を奪われる自粛を「なんの補償もなく」強制させられるのも当然になる。
 しかし、政府が発した「国民を守る」という言葉は政府自身は守る必要はない。
 デフレの時に緊縮増税をして、国民にお金を与えず奪うだけ奪い所得給料を減らし、自粛を強制し店を会社を潰しても構わない。
 インフレの時に後先考えずお金を発行し使いバブルを起こし崩壊させて、国民の生活をめちゃくちゃにしてもいい。
 政府(関係者)は宴会を開いてもよいが、国民は居酒屋にも行くのも憚られ自粛させられる。
 政府がイベントを開いてもよいが、国民がイベントを行ってはダメ。
 国民を守ってもよいし守らなくてもよいという自由が、政府に生まれる。
 それを認めることになるのではないか。

『自己責任だけ』

 政府は、自身の発した言葉も発行した通貨も自国の国民も守る義務はない。
 しかし、国民は通貨の価値を守るため財政を守るためとかで競争を強いられ、国民自身を守る義務がありそれを強いられる。
 それをなんというのか? 
 自己責任というのではないでしょうか。
 自己責任しかなくなる。
 それでよいと認めてしまうのではないのか。
 自己責任しかない社会。
 それは裏で他人に負け組に全てを押し付けている社会になっているのかもしれません。

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