命とはまことに尊いものですが、置かれた状況や境遇によっては、それが耐えがたい苦痛をもたらす刃にもなり得ます。
『「なぜ生きなければ」ALS女性、ブログにつづった苦しみ』
「ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者に薬物を投与し殺害したとして、2人の医師が嘱託殺人容疑で逮捕された事件。事件で亡くなった女性は開設したブログに「なぜこんなにしんどい思いをしてまで生きていないといけないのか、私には分からない」などとつづり、ALS患者として生きることの苦しさを1年以上にわたってつづっていた。(略)
身動きや会話はできないため、眼球の動きで操作できるパソコンを使用。30年5月3日、開設したブログの最初の記事のタイトルは、「早く楽になりたい」。唾液がうまくのみ込めず、一日中むせてせき込む様子を書き記し、「助からないと分かっているなら、(中略)本人の意識がはっきりしていて意思を明確に示せるなら、安楽死を認めるべきだ」と訴えていた。(略)」
国民が安楽死の是非についてまともに議論するならば、互いに掴み合いのけんか腰になるほどの激論になるだろうことは想像に難くありません。
最初に申し上げておきますが、私は安楽死(尊厳死)を容認する立場です。
安楽死には、積極的安楽死(致死性の薬物の服用または投与により、死に至らせる行為)と消極的安楽死(予防・救命・回復・維持のための治療を開始しない)という概念があるそうですが、積極的安楽死を法制化して認めるべきという考えです。
1995年に東海大学病院安楽死事件を巡り判例横浜地裁が出した安楽死の4条件というのがあり、下記の条件を満たさぬと違法行為になると認定しています。
1患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。
2患者の病気は回復の見込みがなく、死期の直前である。
3患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために可能なあらゆる方法で取り組み、その他の代替手段がない。
4患者が自発的意思表示により、寿命の短縮、今すぐの死を要求している。
私は、上記の「4」を満たせば、尊厳ある安楽死を認めるべきだと思います。
今回のALS患者安楽死事件について、本稿を書いている7/29時点で解っている事実を列挙します。
- 女性は筋萎縮性側索硬化症という不治の難病に長年苦しめられ、強いストレスに耐えきれず生命の断絶を強く望んでいたこと
- 安楽死を求めて主治医に栄養補給の中止を要望したが断られていたこと
- 逮捕された大久保容疑者とはTwitterで知り合い、容疑者当てに安楽死を望む意志を伝え、事件の約1カ月前から計画の日時や費用などの打ち合わせを重ねていたこと
- 女性から大久保・山本両容疑者あてに130万円の報酬が支払われていたこと
- 両容疑者は女性宅を訪問した際に出合わせた介護ヘルパーに偽名を使ったこと
- 山本容疑者に医師免許不正取得の疑惑があること
- 両容疑者が、ネットや書籍で命の選別を訴える優生思想的な主張を繰り返していたこと
我が国では安楽死を認める意見が7割超というデータもあるようですから、本件を契機に安楽死の認定基準や法制化、実施施設や方法などの議論が沸き起こってしかるべきです。
ですが、それを忌み嫌う報道機関や反対派は、上記事実の⑤~⑦を誇大に報じて、本件は法を犯し危険な思想に嵌ったいかがわしい連中が金欲しさに惹き起こした事件であるかのようなレッテルを貼り、安楽死の是非をまともに議論させまいと必死の形相です。
ですが、そんな些事に惑わされることなく、事件の本質に目を向け、肉体的・精神的に重度の苦痛を負い、生命を全うすること自体に耐え難い絶望を抱かざるを得ない方々の最期の希望をどう汲み取ってあげられるのか、という重すぎる課題から逃げず真剣に向き合うべきです。
本件の報道を機に安楽死という言葉が世間をのし歩くのを嫌う連中は、
「安易に安楽死という議論に逃げるな。「生きたい」「生きられる」と思えるような支援者や環境が必要だ」
「安楽死や死ぬ権利を認めるのは、“役に立たなければ生きている価値がない”という優生思想を生み出しかねない」
と批判します。
しかし、今回亡くなった女性にとって、自分の意思で身動き一つとれない不治の病に8年以上も侵され、治癒という希望もなく、闘病という言葉すら空しいだけの艱難辛苦の中で、唯一の希望が、“生命活動を絶つ”、“命の終末を迎える”ということでした。
彼女にとっては、「生きたい」「生きられる」と思えるような支援や環境なんてきれいごとなどとうの昔に雲散霧消し、“生きる”という言葉自体が忌むべきものでしかなかったのではないでしょうか。
安楽死の議論を安易だと抜かす連中は、他人の苦痛に心を寄せるフリだけして具体的な支援など何一つしないくせに、自身をヒューマニストと装うために、口先だけで命の尊さを説いているだけに過ぎません。
彼らにとって、“命や生”という文字は、生命活動の終焉を強く望む方々の希望を土足で踏みにじり、苦痛しか生まない“生”を強要する蛮行を覆い隠すための装飾ツールでしかないのです。
こういった安易な安楽死禁忌思想が、生に絶望し逃げ場を失った方々から安楽死や尊厳死という選択肢を奪い取り、強い肉体的苦痛や耐え難い恐怖を伴う自殺という手段に追い込んでいます。
生を望まぬ方々は、本来なら安楽死という尊厳ある方法で生命活動を終えることができるはずなのに、安楽死をタブー視する連中は、他人の終末に土足で乗り込んだうえに人生最後の望みや選択すら妨害し、その死を貶めて手柄顔する始末です。
彼らは、死を望む人々が安楽死の選択という崖の先端に至るまで、いったい何をしていたのでしょうか?
そこに至る過程でどれだけ救いの手を差し伸べてきたのでしょうか?
安楽死希望者が崖の先まで懸命に歩く姿を傍観しておきながら、いざそこから飛び降りようとする瞬間にしゃしゃり出てきて、偉そうに命の大切さを説き始める様は、表現しようもないほど醜悪ですね。
生命活動の終焉を選択する者が気に喰わないのなら、そういった人々の苦痛やストレスを完全に取り除くよう全力で努力すべきではないでしょうか。
それすらできないくせに、安楽死しか選択肢のない方の最期の希望を冒涜するような行為や発言は厳に慎むべきです。
自分だけの物差しで生命に対する他人の意思を軽々しく語るべきではありません。
生きたいと強く願う人は生き続ければよいだけです。
安楽死や尊厳死という手段で命の終焉を強く望む人を妨害し侮辱する権利などありません。