本稿は2018年の記事を、リライトしております。
中野剛志さんの著作「経済と国民」は非常に示唆に富み、一度は読んでおくべき名著の1つです。是非とも皆様も、ご一読ください。
経済と国民-フリードリヒ・リストに学ぶ-のさわり
本日ジュンク堂に行きまして表現者-クライテリオン-と一緒に中野剛志さんの著作、経済と国民-フリードリヒ・リストに学ぶ-を購入しました。
いわゆる経済ナショナリズムについて書かれた本であり、フリードリヒ・リストの研究本と言っても過言ではないのですが、その分析の鋭さと引用したり引っ張ったりしてくる研究者の多さに舌を巻きます。なにせ国家理性論に言及してマキャベリまで引っ張り出すんですから。
またさらにマキャベリと同時代(ちょい後か)の「経済学の始祖」とすら言えるアントニオ・セラも引っ張り出されます。
他にもシュンペーター、ケインズ、ボッテーロ等々。これだけ多くのものを引用しながら、それらを併置し、分析し、思想潮流を辿っていくさまは圧巻と表現して過大ではないでしょう。
この著書は以下のような構成になっております。
経済と国民-フリードリヒ・リストに学ぶ-の目次
序章 自由貿易という逆説
第一章 理論と実践
第二章 科学とヴィジョン
第三章 プラグマティズムとナショナリズム
第四章 力量と運命
第五章 国家理性と経済ナショナリズム
終章 リスト追卓
経済と国民-フリードリヒ・リストに学ぶ-のレビューと書評
読み終えて一番印象に残ったのは、リストが生きていた古典派経済学時代と、現在の主流派経済学の支配的空気は非常に似通っていて、経済学がまるで朱子学のような気宇壮大で中身が空っぽのものに成り果てているという点。
実践を介さない理論的追求は絵空事になりはて、普遍的で抽象的で静的な「死んだ学問」とでも表現したら良いのか、無機物的なものとでも表現したら良いのか。とにかく世界観が現実世界とまったくもって異なる点が印象的です。
おそらく中野剛志さんのこの著作での目的というのは、動的な生の学問の復活であり、このことは経済学批判だけにとどまらず、理論的支柱をリストに置きながら、様々な人物の分析や論考に言及することで「経済ナショナリズム」のみならず「政治や国家」にまで言及しておられます。
最近の最新の経済学ではMMTや、もしくは自由貿易批判や自由貿易への懐疑、金融規制の緩和の弊害、セイの法則への懐疑などが指摘されるようになっておりますけれども、それでもまだまだアダム・スミスを祖としてミルトン・フリードマンによって復活した古典派ないし新古典派経済学の牙城は揺るぎなくそびえ立っていて、「なぜその牙城は崩れないどころか、ますます強固に頑固になっていくのか?」という分析も本書で記されております。
これは端的に要約すると、以下のようなことになろうかと思います。
主流派経済学の機械論哲学を元にする合理主義、演繹的で静的な世界観は、確実性を約束するものである。要するに宗教的な表現で言えば「死んでも天国に行ける」というような確実性をコミットする世界観であり、それが現実的に正しいかどうか?などは二の次である。
一方で中野剛志さんやリスト、マキャベリなどが捉える世界観は動的であり、動的であるとはすなわち非合理的であり不確実性に満ちたものである。この世界観の中では「あるときには正しかった政策は、違う場合において正しくないこともある」という非常に曖昧であり、理性のみで判断することが不可能だからこそ、経験や実践、漸進的、歴史に学ぶなどのプラグマティズムな判断が要求される。
では人間は不確実性を正面から受け止められるほど強いか?というとそうではない。とくに主流派経済学のような「静的で確実な答えがある世界観」に安穏としていた人間は、動的な世界観は受け止めきれないどころか、不確実性に不安になり、より頑なに自身の世界観を守ろうとするのである。
ちなみにフリードリヒ・リストは人生の最後にピストルによる自殺を選びます。これは主著である「政治経済学の国民的体系」が動的で不確実性のある世界観をしていたために、古典派経済学から目の敵にされ、彼らが動揺し、そしてリストへの誹謗中傷や剽窃の疑義すらかけて社会的に抹殺をしたからだと言われています。
新古典派経済学において自由貿易は「無謬で善なるもの」として信奉しなければいけないドグマであり、教義です。これを批判すれば主流派経済学徒はありとあらゆる手を使って、反論ないし誹謗中傷を試みるでしょう。
それは自らの世界観の、すなわち「完全な答えのある世界観」の否定であり、自由貿易批判を認めてしまえばその世界観は崩れ落ち、不確実性の現実に身を晒すことにほかならないので、彼らは頑迷に信奉し、反論し、攻撃するわけです。
自由貿易に異議を唱えた場合の彼らの反応は、「比較優位論すらお前は理解してないっ!」や「比較優位はすでに実証されているっ!」といったものですが、比較優位が実証されたことはありませんし、また理論的にも穴だらけだったりもします。
まあこの点は些細な話ですので、後日に議論を譲ります。
この議論は政治論争やイデオロギー闘争においても見られる現象です。頭の良い合理主義を気取った人が、自説が否定された途端に不寛容と誹謗中傷、上から目線と攻撃性を発揮する例は我々の周りにも確認されます。
・・・まあ、それは一種の認知不協和と自己弁護であり、そのような態度に陥ることはすなわち、自説が大したものではなかったという証明に過ぎないのですが。
中野剛志さんはこの世界観の違いについて、異なる世界観は共約不可能である、つまり相容れないと論じております。説得ですら効果は薄いだろうとのこと。
これらのことから導き出されるのは、新自由主義に染まった日本において、異なる道を歩きだすためには思想的革命、パラダイムシフトが必要であるということでしょう。そしてそれは容易ならざる道であるのだと思います。
論理的な正しさがそれを保証するわけではなく、むしろ思想のパラダイムシフトには政治闘争的な力量と、そしてそれが時代に求められる運命が必要となることでしょう。
つまり・・・グローバリズムや新自由主義の弊害がさらに顕になってはじめて、思想のパラダイムシフトが起きるかもしれない、起きないかもしれないということなのです。
それがいつになるのか?そして間に合うのか?誰にもその答えは出せないことでしょう。だからこそ「自身の役割を死守する(日本の没落より)」必要があるのだろうと思います。
経済と国民-フリードリヒ・リストに学ぶ-はどのような人向けの著作か
この著作、大変面白いのですが中身はなかなか難解です。政治や経済の初心者向けという著作ではなく、むしろ中野剛志さんの著書をいくつか読んだ人向けではないか?と思います。
内容としては中野剛志さんの主著である「富国と強兵」レベルに難解、かつぎっしりと詰まっていると思って差し支えありません。
※もっとも富国と強兵のほうが、さらにぎっしりと中身があるわけですが(笑)
また経済学的な知識もやや必要になってきます。比較優位論やヘクシャー=オリーン・モデルなどの概要、ワルラスの一般均衡がどのようなものであるか?をざっと把握しておく、ということも読み解くためには必要でしょう。
というかそれらの概要を知っていないと、中野剛志さんとリストが何を批判しているのか?が理解できないのです。
その意味においては本書はアカデミズムに傾倒していて、読みやすい本とはいい難いのですが、しかしながら読み解く価値のある本でもあります。
興味がありましたら皆様も購読されてみてはいかがでしょうか?