普段の仕事で何気なく使っているクリップや付箋、家で洗濯物を干すときに使う洗濯バサミ、昼休みに買った弁当についている割り箸。
昭和や平成初期には、それなりの値段がしたものですが、いまや、どれも100均で気軽に買えるアイテムですよね。
ですが、私は時々考えます。
「原材料と道具を与えられたとして、果たして洗濯バサミを自分で造れるだろうか?」と。
答えはもちろん“No”。
私など、偉そうにマクロ経済の在り方を語るくせに、洗濯バサミどころか、割り箸、クリップはおろか、付箋一つすら造れません。
それどころか、洗濯バサミの主原料が何であるかも知りません。
我が国の人口は1億人を超えますが、100均で買える程度の低次元なアイテムですら、個々の商品を企画・調達・製造・流通させる技術やスキルを持つ人間は、ごく少数に限られます。
日本の頭脳が集約している東京都中央区や千代田区、港区、品川区、文京区辺りを探ってみても、100均の商品棚を埋めるアイテムを造るスキルを持つ者は、ほんの僅かしかいないでしょう。
それだけ、モノを造りやサービスを提供する技術やスキルは貴重だということです。
常々、私は「モノを生産し、サービスを供給する力こそ“国富”である」と主張してきました。
なぜなら、高度なモノを造り、高水準のサービスを提供する力や意志なくして、国民の生活を豊かで便利にすることなど不可能だからです。
世の中には“労働本位制”という考え方があります。
さしずめ、「国全体の労働力が、その国が発行する通貨の価値を担保する」ということでしょう。
私自身もこの考え方に概ね賛同します。
ただし、高度な社会活動や経済発展が、労働(モノづくり+サービスの提供)単体だけで成り立つと高をくくるのは、あまりにも早とちりで幼稚な発想ですね。
日々の食糧確保に全精力を注ぎ、生命を維持することに汲々としなければならなかった時代、つまり旧石器時代以前の原始時代なら「労働こそ全て。労働力の確保=生命維持」といって差し支えありません。
まさに、労働本位制の全盛期です。
しかし、労働が命を永らえるためだけの武器であった時代はとうの昔に終わり、人々が労働に期待する役割は、生命の維持から、「生活の質を上げるための行為」へと変貌しました。
労働の対価が麦やコメ、マンモスの肉、シカの皮etcで済んだ時代なら、“労働こそが崇高な行為”と労働を賛美し、“通貨はただの紙切れ”とお金を蔑む「労働本位制絶対主義者」が大手を振って歩けたかもしれませんが、労働の対価として“お金(通貨)”で決済するのが一般的な現代では、労働の価値はお金という尺度でしか計れない世の中に変わっています。
そういった事実を顧みずに、
「通貨という紙切れだけで経済が動くはずがない」、
「人々が働く理由は生きていくためだけ」、
「MMTは労働本位制だ」、
といった寝言を吐く者が、いまだに存在することに驚かされます。
この手の時代遅れも甚だしい連中の頭の中は、いったい何時代でSTOPしているのでしょうか?(終戦前? 文明開化前? 産業革命前? 大航海時代?)
労働を崇高な目で視て、それを尊ぶのは当然のことですが、ただ単に労働を賛美する(→お金を蔑む)だけでは、労働の質や価値を上げることは叶いません。
人々が働く場さえあればよいという時代は1万年以上前に終焉を迎えていますが、労働本位制を声高に賛美する連中は、そうした時代の変化についていけていないようです。
生きるためだけという低次元労働はもはや成り立ちませんし、適切な対価を与えられぬ限り労働は陳腐化を余儀なくされます。
本来、労働という生産行為は、国や社会にとってかけがえのない国富のはずですが、次のような悪弊が蔓延すると、労働自体が形骸化・陳腐化してしまいます。
それは、
①人々が労働(雇用)の場を奪われること。あるいは、労働から放逐されること
②提供した労働に対する対価が著しく低く不当なものであること
③生活や人生の大半を労働に費やさざるを得ず、余暇を楽しむ時間を奪われること
です。
特に、ベーシックインカムを嫌悪し、弱者や中間層の救済に消極的な連中ほど“労働本位制絶対主義”を信奉します。
彼らは、口先では労働の尊さを説くくせに、人々が死ぬ思いで提供する労働の価値を平気で踏みにじる冷酷な意見を吐いていることに気づこうともしません。
「生産こそ労働の成果であり、それは所得として評価されるべき」
「所得を増やすためには、分配の源であるGDPを増やすべき」
「ベーシックインカムは“下品なカネ配り”に過ぎない」
「ベーシックインカムで配られたお金が何処に向かうのか判らない」
「政府が国債発行で調達したお金を全国民に配り、「さあ使え」と強要するのは異様」
これらは、(自称)労働本位制主義者の吐いた妄言や寝言の数々です。
一見、立派なことを言っているように見えますが、彼らは、20年以上続く大不況が、通貨価値を担保するはずの労働という根本(本位)を腐らせていることに対する危機感が欠如しています。
労働! 労働!と叫ぶ連中に限って、世界一勤勉な日本人が提供する労働が蔑まれ、その基盤が腐食しつつある事実をスルーし、「労働の価値を上げるには、労働の付加価値を上げるべき」とか、「分配政策の見直しだけで十分」、あるいは、「政府主導で最賃レベルの有期雇用を創り出せ」などと見当違いな意見を撒き散らします。
“労働は国を支える尊い行為である”
そんなことは誰もが解っています。
その尊い行為に対する対価、つまり労働の価値が、あまりにも貧弱化している現実や事実を可及的速やかに解決するためにどういった政策が必要なのか、ということが問われているのが解らないのですかね?
勤労世帯の年収が20年以上も昔より1割近くも低く、労働者の4割近くが非正規雇用で平均年収は200万円すら下回り、老齢年金受給額はピークより15%以上も低い…
国民は緊縮財政に端を発する経済敗戦に見舞われ、超長期的所得減少という大惨事に20年以上も苛まれ続けてきたのです。
この間に喪失した所得は優に4,000~5,000兆円にも及ぶと推計され、その莫大な所得(需要)を逸失したために世に生み出される機会を失った生産量や供給量(国富)たるや、考えるのも口惜しいほどです。
いくら労働の大切さを叫んでも、労働の対価となる需要(消費→所得)の総量が絶対的に不足していては、どうにもなりません。
そこに存在するのは、不当な低賃金労働やタダ働きの類いでしかありません。
“政府が積極財政により歳出拡大に勤しみ、それが民需を刺激して労働の価値を引き上げ、平均所得が力強く上昇する”
私もそんな好景気の招来を願ってやまぬ者のひとりですが、そうした吉報をただ待つだけ、というのはいかがなものかと思います。
なにせ、積極財政を源泉とするトリクルダウン方式の果実が全国民に浸透するまでには、途方もない時間を要します。
さらに、過去の経済失政や消費税導入・引き上げにより喪失(逸失)した国民の所得がまったく補填されないまま放置されてしまいます。
これでは、所得が多少上がっても、国民は消費に積極的になれません。
20年間で失った損失は同じ時間をかけて取り戻せばよい、といった悠長な発想では、経済成長で先を走る先進各国に追いつけませんし、真の経世済民を成すことなど叶いませんよ。
“20年間で失った所得と自信は5年で取り戻す”くらいの覚悟と気合が必要です。
私は、下品なカネ配り(ベーシックインカム)を厭いませんし、それどころか、凍り付いた個人消費と日本経済成長に対する自信を取り戻すために絶対不可欠な良薬だと理解していますので、積極財政による公共投資増加と並行して実施すべきと強く主張します。
「公共投資で仕事を増やすのも善し。ベーシックインカムで国民の逸失所得を補填するのも善し」です。
20年もの間成長から見放された我が国には、供給と需要を両面からスピーディーかつダイレクトに刺激する政策を打たねば、経済を駆動させることは到底不可能でしょう。
ベーシックインカムを質の悪いカネ配りだと罵倒する幼稚な連中は、バラまかれたカネが膨大な需要を生み、次世代への財産である供給力を養成するパワーへと生まれ変わる事実を意図的に無視しています。
本来なら、日本人による質の高い労働力の提供に対して、世界最高水準の対価(給料・人件費)が支払われてしかるべきですが、緊縮財政という悪手を定番化したせいで、我が国はいまや「Wow! Japanはなんて物価の安い国なんだ‼」とインバウンドを喜ばせる“先進国屈指の低賃金国家”に落ちぶれてしまいました。
企業が払えぬなら、政府がベーシックインカム(=生活向上給付金/国民一人当たり月3~4万円の給付)のような直接的所得増加政策をもって失った所得を補填すべきです。
大切なのは、需要回復に費やす時間を一秒でも短縮することです。
政策の良否や清濁に固執し、「通貨は道具に過ぎず、機能するためには労働の裏付けが必要だ」とカビの生えた正論紛いの妄言は聞き飽きました。
ただでさえ低すぎる所得のせいで、日本人の労働価値は劣化する一方です。
労働本位制を主張するくせに、労働にとって最高の報酬であるカネ(所得・通貨)の供給を断ち切り、労働価値の陳腐化を容認するのは、労働本位制を根底から否定する愚論中の愚論ですよ。
所得不足は需要減退を常態化させ、需要不足は供給力の劣化や破壊につながり、労働価値を毀損します。
このまま日本人の低所得を放置すると、やがて、「一生懸命働いても報われない」、「働くのはコスパが悪い」という考えが蔓延し、労働の質は悪化の一途を辿り、労働本位制とやらは崩壊するでしょう。
「通貨(カネ)の価値は労働により担保される」という原理に間違いはありませんが、労働に命を吹き込み、意欲を湧き立たすことができるのは、「通貨(カネ)」以外にないことを併せて理解せねばなりません。
労働を尊ぶ気持ちがあるなら、労働を駆動させる原動力である「カネ」にも十分に敬意を払うべきです。
うずらさんのご意見に全面的に賛同致します。
正直な所BIを認める認めないなど積極財政という大目的の前には些末な事ではないかと、
積極財政派の内ゲバのように感じておりましたが、ふと我が身を考えてみればBI抜きの純粋なるMMTの理論で我が身が救われるのはどれほど先なのだろうかとうずらさんの記事を拝見して考えさせられました。
BIは下品なバラマキなのかもしれません。ですが私を含め国民は疲弊しきっています。
理論的に美しい財政出動による救いはいつやってくるのでしょうか。
ケインズではないですが、長期的には我々は皆死んでしまいます。
20年以上も痛めつけられた我ら庶民には早急なる救いが必要なのです。
立場により経済に対する実感が違うのでしょうが、真なる庶民は需要不足の最前線で死に瀕しています。
美しい理論よりより多くの人々への救いが最優先なのではないかと私は思います。
高みに立ち理論の純粋性を追い求める姿勢は主流派経済学者と何が違うのかと。
真なる意味で死に瀕した庶民を救う理論が広まることを祈るばかりです。
コメントありがとうございます。
財政政策がきちんと機能して国民所得が右肩上がりの世の中なら、なにもBIなんてやらずに済むのですが、国民所得が20年以上も伸びないという先進国にあるまじき惨状を1秒でも早く解決し、過去に失った所得を補填しようとするなら、BIを選択肢から排除するなんて絶対にあり得ない愚論だと思います。
口先だけで労働本位制を唱える方々には、労働を賛美する前に、労働の価値が不当に貶められている現状を具体的かつ早急に改善できる提案を望みたいですね。
お邪魔いたしますです。
>>この間に喪失した所得は優に4,000~5,000兆円にも及ぶと推計され、その莫大な所得(需要)を逸失したために世に生み出される機会を失った生産量や供給量(国富)たるや、考えるのも口惜しいほどです。
積み上がった国債。MMT的にはどー考えるべきなのかなーって考えてるです。具体的な金額ではなく指標でしかなくなるのかもです。
もしかすると、仰っているように、『喪失した所得』を裏付ける金額なのかも知れない。
『MMTなんて知るかよ!』って人でも、経済が良い状態なら国債が積み上がるわけがないって判るはずですよね。
コメントありがとうございます。
国債が増えるのは結構なことですが、問題なのは、増えた分が国民所得の増加に寄与していない点です。
もっと大胆に国債を発行し、積極財政策を通じて、それを直接的に国民の所得や雇用の充実に充てねばなりません。