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下記は、著書の中から一部を引用します。
はじめに─なぜ「奇跡」なのか
本書を読まれる方は、おそらく、本書のページをめくるごとに、衝撃的な体験をすることでしょう。
というのも、本書には、世間で信じられている常識、政府の公式見解や経済学者の解説、あるいは新聞やテレビから流れてくる情報とは、文字通り180度違う内容が、それはもう次から次へと出てくるからです。
本書は、もちろん私の見解ではありますが、少数派ながら超一流の学者たちによる研究や理論をもとにして書かれています。その中には、日本はおろか、世界のエリートたちでも、ごく一部しか理解していないような高度な内容も含んでいます。また、本書が参照する情報やデータは、すべて公開されているものです。
そんな経済学者や官僚でも知らないような高度な内容を、経済学を専門としないサラリーマンや学生の方でもすらすらと理解できるようにポイントを絞り、「これ以上は無理!」というくらいに分かりやすく説明してしまいました。
本書を読み終わった方は、日本の政治家、官僚、経済界のトップ、経済学の大学教授、経済アナリストといったエリートや専門家のほとんどが、実は、経済の基本も分かっていない単なる素人だったことを知って、愕然とすることでしょう。
だから、『奇跡の経済教室』なのです。
本書は、二部構成となっています。
第一部では、現代経済の仕組みに関する基礎知識を学習しましょう。「おカネとは何か」「税とは何か」といった根本的な問題にまで掘り下げて、分かりやすく解説していきます。
誰でもおカネを使うし、税金も払います。それにもかかわらず、おカネや税金について、正しく理解している人は、ごくごくわずかです。
しかし、もしおカネや税について正しく理解すれば、平成の日本経済がなぜ停滞したのかが、いとも簡単に分かるでしょう。
第二部では、著名な経済学者たちの議論を批判的に検討してみましょう。これは、第一部で学んだ知識や考え方を復習するために、先生方の胸を借りる練習問題だと思ってください。
ですが、決して難しい内容ではありません。第一部で説明した知識や考え方さえマスターしていれば、経済学者たちが何を間違えているのかが、簡単に分かるようになっているはずです。
実は、本書の内容の多くは、いわゆる「コロンブスの卵」―言われてみれば、誰でも分かるような話―です。
ですから、本書を読まれた方の多くは、「最初は驚いたけれど、よく考えてみたら当たり前の話ばかりだ」という感想を抱くことでしょう。
そして、その後で、必ず、こういう疑問を抱くと思います。
「なぜ、この程度の話が、経済学者や政治家、官僚、経済界のトップといったエリートたちには分からないのだろうか?」
実際、私は、講演などで本書の内容と同じ話をした後で、聴衆の方からこのような質問を受けることがよくありました。
なぜ、日本の経済政策を動かすエリートたちが、間違い続けるのか。
どうすれば、正しい経済政策ができるのか。
これらについては、本書の続編である『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』(小社より2019年7月刊行予定)で明らかにすることとしましょう。
その前に、まずは、本書で、正しい政策を実行するために必要な基本的な考え方や知識を完璧にマスターしていただければと思います。
勘違いしたエリートたちのでたらめな政策から日本を救い、よりよい国を子や孫の世代に残すためには、国民一人一人が、正しい考え方や知識を身に付けるしかないからです。
平凡ですが、それ以外に方法はないのです。
なお、本書を執筆するに当たり、京都大学大学院教授の藤井聡氏、株式会社クレディセゾン主任研究員の島倉原氏、一般財団法人国土技術研究センター国土政策研究所所長の大石久和氏には、資料のご提供をいただきました。また、京都大学レジリエンス実践ユニット特任教授の青木泰樹氏にも、ご指導いただきました。厚く御礼申し上げます。
読者の方々には、この四氏の御著作も参考にしていただければ、経済や財政に対する理解がいっそう深まると思います。特に、この6冊をお薦めします。
藤井聡『プライマリー・バランス亡国論:日本を滅ぼす「国の借金」を巡るウソ』(育鵬社)
藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する:今こそ真の「税と社会保障の一体改革」を』(晶文社)
島倉原『積極財政宣言:なぜ、アベノミクスでは豊かになれないのか』(新評論)
大石久和『国土が日本人の謎を解く』(産経新聞出版)
青木泰樹『経済学者はなぜ嘘をつくのか』(アスペクト)
青木泰樹『経済学とは何だろうか:現実との対話』(八千代出版)
あっ、一つ、大事なことを言い忘れました。
本書の内容は、筆者個人の見解であって、筆者が所属する組織の見解ではありません。念のため。
なお、個人の見解のほうが出来がいいのは言うまでもありません。
第五章 お金について正しく理解する
貨幣とは、負債の一種
では、あらためて、貨幣とは、いったい何なのでしょうか。
これについては、イングランド銀行の季刊誌(2014年春号)に掲載された貨幣に関する入門的な解説が大変参考になります。そこには、こう書いてあります。
今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である。
このように、貨幣を「負債」の一種とみなす学説を「信用貨幣論」といいます。
これに対して、貨幣の価値は、貴金属のような有価物に裏付けられているとする学説は「商品貨幣論」と呼ばれています。
さて、「信用貨幣論」と「商品貨幣論」のどちらが正しいのでしょうか。
一般の人々が抱いている貨幣というもののイメージは、「商品貨幣論」のほうであるように思われます。
また、かつての金本位制は「商品貨幣論」に基づいた制度です。
仮想通貨もまた、その根底にある貨幣観は「商品貨幣論」だといえるでしょう。
しかし、現代の貨幣は、貴金属などの有価物との交換を保証されていない「不換通貨」であるにもかかわらず、「お金」として広く使われています。どうして、そうなのでしょうか。
これは「商品貨幣論」では説明が難しい。だから、ウォズニアック氏は、現代の貨幣を「インチキのたぐい」と言ったのでしょう。しかし、現代の貨幣をインチキ呼ばわりする前に、そもそも「商品貨幣論」が間違っていると考えるべきではないでしょうか。
イングランド銀行の季刊誌の解説も「商品貨幣論」を否定しています。この解説は、貨幣とは負債であるとする「信用貨幣論」の意味を分かりやすく説明するために「ロビンソン・クルーソーとフライデーしかいない孤島」という架空の事例を挙げています。
その孤島で「ロビンソン・クルーソーが春に野苺を収穫してフライデーに渡す。その代わりに、フライデーは秋に獲った魚をクルーソーに渡すことを約束する」とします。
この場合、春の時点では、クルーソーにはフライデーに対する「信用」が生じます。反対にフライデーにはクルーソーに対する「負債」が生じています。そして、秋になって、フライデーがクルーソーに魚を渡した時点で、フライデーの「負債」は消滅します。
このように、取引関係は、「信用」と「負債」の関係として理解できるのです。イングランド銀行の季刊誌の解説は、このように説明しています。
ここで重要なのは、このクルーソーとフライデーの野苺と魚の取引が、同時に行われるのではなく、春と秋という異なる時点で行われるということです。
というのも、野苺と魚を同時に交換する「物々交換」の場合には、取引が一瞬で成立しているので、「信用」や「負債」は発生していません。
しかし、春と秋といったように、異なる時点の間での取引関係では先ほど説明したように、「信用」と「負債」の関係になるのです。
さて、このクルーソーとフライデーの例において、もう一度、春の時点、つまりフライデーが、クルーソーに対して「秋に魚を渡す」という債務を負った時点に戻ってみましょう。
この時、フライデーがクルーソーに対して、「秋に魚を渡す」という「借用証書」を渡したとしましょう。
ここで、話を少しアレンジして、この島には、クルーソーとフライデー以外に、サンデーという第三者がいたとします。
サンデーは、火打ち石を持っているとする。そして、クルーソーが、フライデーに対する「借用証書」をサンデーに渡して、その火打ち石を手に入れたとしましょう。
さらに、この三人に加えて、マンデーという人もいたとします。
マンデーが持っているのは、干し肉です。そして、サンデーがそのマンデーに例の「借用証書」を渡して、その干し肉を手に入れたとします。
その結果、フライデーは「秋に魚を渡す」という債務を、マンデーに対して負ったということになります。
この例の場合、フライデーの「秋に魚を渡す」という債務は、クルーソー以外の三人にも譲渡可能なものとなっています。
つまり、クルーソーたち四人の島では、このフライデーの債務の存在を示す「借用証書」が、貨幣となっているのです。
これが「貨幣とは、負債の一形式である」ということの意味です。
ところで、このクルーソーたち四人の島で、この「借用証書」が本格的に「貨幣」として流通するためには、いくつか、条件があります。
まず、フライデーが「秋に魚を渡す」という約束を必ず守るという信用がなければ、この「借用証書」を誰も受け取ってくれないので、取引の手段としては、使えません。
また、この「借用証書」をマンデーもサンデーも受け取るためには、クルーソーの「野苺」、フライデーの「魚」、サンデーの「火打ち石」、マンデーの「干し肉」の価値がちょうど等しくなければなりません。
しかし、この四人だけの世界とは違って、現実の経済における財・サービスの取引は、無数の主体の間で行われます。このため、取引される財・サービスの数は膨大になり、「売り手」と「買い手」の間の「信用/負債」関係もまた無数に存在するということになります。
そうなると、クルーソーたちの世界のように、数人の間の関係だけで「信用/負債」関係を解消することは、現実の巨大で複雑な経済では、とうてい不可能です。
そこで、ある二者間の関係で定義された「負債」と、別の二者間の関係で定義された「負債」とを相互に比較し、決済できるようにするために、負債の大きさを計算する共通の表示単位が必要となります。
この共通の負債の表示単位が、例えば、円やドルやポンドといったものなのです。
以上が「貨幣とは、負債の一形式である」という信用貨幣論のポイントです。
貨幣の歴史
信用貨幣論が正しくて、商品貨幣論は間違いである。
これは、歴史をみても裏付けられます。
一般に、おカネの起源というのは、次のようなものだと広く信じられてきました。いや、一般にそう信じられているだけではなく、主流派の経済学者たちも、次のように説明してきたのです。
それは、こんな物語でした。
昔々、人々は物々交換でモノをやり取りしていました。
自分に必要なモノは、全部、自分で作れるわけではないので、何か必要なモノがあるときは、それを持っている誰かのところに行って、自分が作るモノと交換したのです。
しかし、それは、大変面倒なことでした。
やがて、人々は、ある価値のあるモノを選んで、それを「交換の手段」としました。例えば、金とか銀とかいった貴金属です。金とか銀とかは、それ自体に価値があるだけではなく、耐久性があり、また持ち運びに便利だからです。
こうして、おカネが生まれたのです。
この「物々交換の不便を解消するために、貨幣が生まれた」というストーリーは、「ある価値のあるモノを交換の手段にした」というくだりから明らかなように、商品貨幣論と結びついています。
ところが、貨幣の起源を研究した歴史学者や人類学者たちは、今日に至るまで誰も、「物々交換から貨幣が生まれた」という証拠資料を発見することができませんでした。
それどころか、硬貨が発明されるより数千年も前のエジプト文明やメソポタミア文明には、ある種の信用システムがすでに存在していたのです。
例えば、紀元前3500年頃のメソポタミアにおいては、神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民から必需品や労働力を徴収し、また彼らに財を再分配していました。そして、神殿や宮殿の官僚たちが、臣下や従属民との間の債権債務を計算したり、記録したりするための計算単位として、貨幣が使われていたのです。
また、古代エジプトは私有財産や市場における交換は存在しない世界でしたが、そこに貨幣は存在していました。その貨幣もまた、国家が税の徴収や支払いなどを計算するための単位として使われていました。
貨幣は、物々交換や市場における取引ではなく、「信用/負債」の関係を起源としているのです。
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