最近加害者にばかり配慮して被害者を蔑ろにする人権屋が目立ちます。
通り魔事件の犯人を非難するな!
川崎の通り魔事件で、“川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい”(藤田孝典 | NPOほっとプラス代表理事)という、「社会い恨みを持つ人」に配慮する記事が出て炎上しています。
社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき
「言うは易し行うは難し」です。こんな空疎な言葉で金銭問題は解決しません。
個人ではなく社会に恨みというと、大抵は経済的なものになります。これを提唱する人はそのお金をどこから持ってきてどういう基準で誰に配るんですか?
技能実習生の新生児遺棄事件、加害者は日本社会!
つい最近こういう事件もありました。(記事こちら)
川崎市で今年1月、生まれたばかりの男児を民家敷地に放置したとして、保護責任者遺棄罪に問われた外国人技能実習生の中国人女性(22)に対し、横浜地裁川崎支部(江見健一裁判長)は5月22日、懲役1年6月、執行猶予4年の判決を言い渡した。
~男児は現在、児童相談所で保護されている。支援者らによると、技能実習を継続しながら子育てをするのか、帰国するのかは今後検討するという。女性の在留資格は今年8月まで。管理団体や受け入れ先企業との交渉を進めているという。
これに対し、
移住労働者と連携する全国ネットワーク(移住連)代表理事の鳥井一平さんは「加害者は技能実習制度、私たちの社会なのではないか」と述べる。
はぁ~?加害者は技能実習生本人しかいないではないですか。
確かに、シンガポールのように妊娠検査をして妊娠している労働移民を退去させるという理に適った制度を持たない日本の単純労働移民政策は間違いです。早く真似すべきです。
技能実習生という趣旨から、妊娠出産を認めることは制度の悪用を招きます。制度が中途半端だから起きるという意味では日本に問題がありますが、執行猶予という情けをかけて、そのうえ国外退去処分にもせず、日本に居続けられるという対応は犯罪抑止にはなりません。
この甘さが日本人の個人的生活から国の外交にまで悪影響を及ぼし続けているのです。
加害者を「被害者」だと庇うことこそ犯罪を助長する
また川崎殺傷事件に戻りますが・・・
以下の記事の筆者は、こう述べています。
通り魔事件「犯人叩き」の是非論争、加害者への過度な配慮が危険な理由
(窪田順生:ノンフィクションライター 2019.5.30 DIAMOND online)
事件記者として凶悪犯罪者と多数話をしてきた経験から言うと、犯罪者に安易に共感することも、彼らの恨みを爆発させる危険な行為である
「社会に恨みを持つ人」への「配慮」も、度を越してしまうと、第二、第三の無差別殺傷事件のトリガーになってしまうこともある
すべて世間が悪いんだと恨みを募らせている人に、あまりに同情的な扱いをしてしまうと、「自分は何をしても許される被害者だ」と勘違いをしてしまう可能性もある
また元特捜の証言として、9割の加害者が自分は被害者という意識だったことを紹介しています。
日本では被害者のプライバシーは晒され、取材攻勢に会い、全く配慮してもらえませんが、加害者の人権は驚くほど守られていると述べています。
そんな犯罪者に優しい国で、今度は19人を襲った大量殺傷犯に「1人で死ね」と叩くのはいかがなものかという意見まで出てきた。事件記者をやっていた経験から言わせていただくと、ちょっと犯罪者に過保護すぎる気がする。
世の中には社会の善意が通用しないどころか、逆に悪用をして自分の身勝手な犯罪を正当化するような人間も確かに存在しているのだ。
苦しむ人に手を差し伸べる優しさも必要だが、「社会が悪いのではなく、貴様が悪い」と断罪できる厳しさも、日本社会には必要なのではないか。
被害者意識を振りかざす犯罪者を守る社会の未来像は・・・
被害者意識や疎外感を持つ外国人犯罪を隠し、庇う社会です
川崎の悲劇はまた起こる?! / 怪しい奴がうろつく社会(無敵の太陽)
こちらの記事はその通りだと思いました。最後にこう書いてありました。
今回、川崎で起きた惨劇は痛ましいが、これからも子供や弱者に対する殺人は起こるだろう。問題なのは、如何にして事件を未然に防ぐかである。しかし、「人権」への配慮とか「差別」の禁止という障碍があるので、屋外で子供を守るのはとても難しい。結局、本音で「嫌なものは嫌」と言えない庶民が被害を被る破目になる。筆者の意見に賛同するのは、被害を受けた国民だけである。日本人は実際に体験しないと現実を理解できない。本当に残念なのは、予想できる悲劇を率直に認めない日本人が矢鱈と多いことである。
参考までに、私は途上国で歩くときにひったくり防止も込めて必ず傘をさしていました。
日本人に傘をさす人が多く、かえって目印になるという話もありますが、攻撃しにくいことは確かだと思います。
通り魔や乳児遺棄の実行犯を庇い、加害者は日本社会と主張する人は、次の事件も社会のせいにするのでしょうね。犯人とともに社会の敵だと思います。
モロッコ人移民がイタリア人男性を「幸せそうに見えた」と殺害
(犯人のSaid Machaouat)
多くの人々が通り過ぎる中で、幸せそうに見えたのでこの若い男を選び、殺すことに決めた。
Machaouatがこう述べたと検察官は言いました。被害者とは面識がありませんでした。
Machaouatは次のように告白しています。
あの日の朝、誰かを殺さなくてはならないと思った。私はナイフのセットを買いに行き、一番鋭利なナイフを残して他を捨てた。それからMurazzi(ムラッツィ:ポー川の河川敷) に行き待った。
その男の顔を見た時、彼の幸せそうな顔つきが絶対に許せなかった。
私は彼を見、彼も私を見た。私は彼も私のように苦しむべきだと思った。私は彼の喉を切り裂いた。
トリノの Paolo Borgna検察官は背筋も凍る動機だと述べました。
私は自分と同じような(年恰好の)男を殺したかった。彼の可能性ある未来も、子供も、友人も親類も奪いたかった。
このようにMachaouatが検察に言いました。
彼は捜査員に、離婚して落ち込んでいたと話しています。
「最悪なのは、4歳の自分の息子が元パートナーの友人をパパと呼んでいると知ったことだ。」と言っていたということです。
Machaouatは2015年に離婚した後無職で家もなかったようです。
事件の2日前まで家に泊めていた古い友人の証言があります。
Machaouatがモロッコから戻った1月下旬に再会し、住むところが無いということで泊めたようです。
ところが、事件の2日前、4月21日友人が家に帰ると犬がボコボコに殴られて死んでいました。怒った友人は犬殺しを認めたMachaouatを追い出しました。
昔は良い人間だったということですが、友人によるとMachaouatは悪魔崇拝の本を数冊読んで人が変わったようだった、とても悪くなったと証言しています。
別の記事には、首を刺して殺したのは、確実に殺すためだったという証言もしていると書いてありました。
社会に恨みを持つ人や被害者意識を持つ人をどうしたら犯罪者にさせないのか、個人ではなく社会に責任があるという説に則れば、解決策は1つあり、既に別の目的で実践中です。
他人を見ても羨ましくないという状況を社会全体、地球全体に作り上げることです。
上流階級(支配層や皇族など)を除いて、全員を貧乏で、惨めで、誰からも妬まれないようにすることです。人は、みんなで絶対的貧困より自分だけの相対的貧困で心が屈折します。
国民限定の社会保障を、いつの間にか対象者を住んでいる人に拡大し、そこに常時外国から貧困層を送り込みます。母国より良いが受入国では惨めだと認識して不満を持つまでにタイムラグがあるのでそれを利用して、その間先進国の中間層を徹底的に下方へ押しやります。
「下々の者たちも、みんな仲良くしなさい。」
多様性とか多文化共生というのはそういう意味です。1%も、犯罪組織も、利害が一致するから仲良くしています。私たちだけが利害が位置しないのに仲良くを強制されているのです。
人口爆発を止めないなら、この方法は絶対的貧困を地球からなくす唯一の方法かもしれません。みんな貧乏でもそれなりの暮らしができれば絶対的貧困は消滅、みんなが貧乏なら相対的貧困も消滅します。そうなれば庶民の中だけでは社会への恨みが消滅します。
こうやって上流階級の1%は時間稼ぎができますが、最期は来ます。
それは以前の記事で書いております。
お邪魔いたしますです。
>通り魔や乳児遺棄の実行犯を庇い、加害者は日本社会と主張する人は、次の事件も社会のせいにするのでしょうね。犯人とともに社会の敵だと思います。
おいらも社会のせーにしたくなるですね。でも、しない。
おいらの実際は納税課の課長とか保健所の担当者とか民政員とか毒親とか、目の前に居る個人なんですよ。もちろん社会全体じゃないんですね。
被害者意識だって有限でしかなくて、社会全体に及ぶなんて有り得ないです。
「ゲームと現実の区別が付かない」と同じなのかなと思うです。「社会のせい」ももはや慣用句で都合よく使われてる。
そんな感じだから、抵抗無く「社会のせい」と言えちゃって、上辺の同情が成立しちゃうのかなと。
本当の同情じゃなく、ピンボケの同情だと思うんですね。