副業を大々的に認めることは労働者に対する責任を回避する方向にしか進まない。

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自分が昔言ったことと矛盾したことを言っていることはよくあることではあるが、それを一方的に避難することは容易い。そんなことは誰にでもできるが、一歩進めて、それぞれのときに考えていたこと感じていたことその時の環境をなどを振り返ってみると色々発見できるかもしれない。(美味しんぼ)

菅首相のの自助という言葉に対しては二通りの感想を持たれるようである。

一つは、自由な働き方を一般的にして、各人の能力を最大限に活かせる社会が作られるという肯定的な感想。今の状況で一つの仕事に対してそんなに懸命にならずともこなせる能力があって、有り余ったパワーを別の仕事に活かしたいという人はそういうことを思うことだろう。

もう一つは、一つの仕事をするのでも精一杯であるのに、副業をすすめるということは、今の仕事に対して仕事を減らし、給料も下げる圧力になるのではないかということである。

雇われる立場から言えば、その2つの見方があって、どちらがどうだということはその仕事の種類ごとにあるべき姿があるはずなので、それぞれにあるというほかない。複数物に対して全力を出すということはそれほど多くの人々ができることではないので、一律に副業を強要することをするべきものではないだろう。

しかし、これが経営者視点になったら話は変わってくる。特に少ない人数で懸命に実業をこなしていくという使命よりは、金を稼ぐことが第一となっている状況で副業を認めるというのは、仕事は名目上少なくする代わりに、給料を引き下げるということが合法的に行えるということである。相変わらず、経営者と雇用者の関係性は、経営者のほうが優位な位置にあることは変わりなく、とくに仕事が少ない状況においては、この制度は、給料を引き下げるための方便として機能することになるだろう。

政府では、アトキンソンのイデオロギー的な考え方に従った中小企業の合併を推進する制度が法律化されていっている。これも、金儲けのために進められている。生産性の定義からして少ない人数で売上を多く上げることができればそれでいいからということである。すぐに売上をあげられないものは切り捨てられ、その場の商売が優先される。しっかりした仕事よりは、見つからないぐらいに手を抜いてその場の見た目だけを整えるやり方を推奨することになるだろう。国内の経済が衰退していく中で、そういうリストラを使った手段でその場の収支を良くしていくということが企業の経営判断として躊躇しないものになっている状況があるのだ。

それがまずいことであるというのは、社会のルールとして補正するしかないだろう。それぞれの人の良心もそれを出し抜く連中が多くいれば、それに流れてしまうというものだのである。副業制度にしても、同じような方便として使われてしまうだろう。要するに、いいところを喧伝して進めようとする「規制緩和」は、意図しない歪んだ環境を作るということを、これまでに起こったことを真摯に知ることで理解することが大切である。

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