将来世代にツケを残せ!~「将来世代にツケを残すな!」の正体2~(後編)

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『将来世代にツケを残してよい資格』

 前回、将来世代にツケを残すな!、というひとりよがりの善意の言葉が実は将来世代を苦しめることを目指しているのではないか、と述べました。
 では逆に将来世代にツケを残せ!、といって今の私達は簡単に作れるツケというお金を積極的にポンポン発行するだけの楽な仕事なのでしょうか?
 ところで、一方には約束をさせて自分は約束を守らない、相手にだけ約束の実行を押し付けようとする。
 そんな人の結ぶ約束なんて誰も信用しないと思います。
 負担を負うのはお前だけ、俺は守らない、自分はそのあがりを掠め取る。
 そんな人の言葉を、いったい誰が信用するのでしょう。
 約束をするとは、自分もその約束を守るからこそ、お互いに信じることができる。
 
 将来世代に税に裏付けられた負債というツケを残すとは、譲り合い助け合いをする物作りを約束させるということ。
 そう考えたら、今の私達もそれと同じ約束を守らなくてはいけないのではないでしょうか。
 ではその約束とは?
 将来世代からみたら、今の私たちは過去の世代です。
 つまりその約束とは、過去世代との約束を守るという事。
 過去世代の負債を負いそれを返すために、お互いに物を作りそれを譲り合い、助け合いをすること。
 過去世代からのツケという約束を、過去から受け継がれものを背負う者だけが将来世代にツケというお金を残してよい、いえ作り残すことができるのではないでしょうか。

『「将来世代にツケを残すな!」の正体2』

 そこをかけ違うとどうなっていくのか。
 過去なんて背負いたくない、歴史?伝統? そんな古臭くて面倒で荷物になるものなんて重くていやだ。
 古いのより新品のもののほうがいいにきまってるさ。
 長く続いてきた老舗の会社なんて古臭くて邪魔だから潰して、とにかく新しいべんちゃー企業とやらをたくさん作ればいい。
 好きな物だけ新しいものだけを、自分の儲けになることだけを自由に自分勝手にやっていきたい。
 
 でも、自分らはめんどうな荷を背おわず好き勝手に楽にやっていくのに将来世代にだけ背負わせる、なんてことできるのでしょうか?
 例えるなら、俺は親の世話をしない、古くなって使えない過去の親なんて見捨てる。
 でも子供は自由にさせない、将来俺(親)の世話をさせるといっているようなものではないでしょうか。
 しかし、私達がやってることを真似したなら、将来世代だって同じことをするでしょう。
 私達が過去を背負わなくなったなら、将来世代からみた過去、つまり今の私達の作った物も社会も負債も背負おってくれなくなっていくのではないか。
 ツケを残すな!、ではなく残しても意味がなくなる。
 なぜなら、負債も会社も社会も歴史も文化も風習も言葉もなにもかも、それらを将来世代は背負ってくれない受け継いでくれない。
 ぷつりとそこで途切れる。
 私達は将来世代から見捨てられる。
 将来世代はこんなセリフを言っているかもしれません。
 
 負債? 財政赤字? そんな邪魔な荷物背負わせるな! 減らせ! 無くせ!
 先代が残した古臭い会社? 農業? 水道事業? そんなきつくて儲からないのは潰して外の奴に売っぱらって、新しいかっこいい楽に儲けられる会社作ろうぜ。
 社会? なにそれ? 
 歴史? それ儲けるのに必要なの? 
 助け合い? それ金になるの?
 日本語? そんなのより英語や外国語の方がかっこよくて便利でいいじゃん。
 街中会社中、英語や中国語だらけにしようぜ。
 日本語なんて最後の方に小さく書いとけばいいさ。
 
 そんな風に古臭い邪魔だ!、という空気で見捨てられ踏みつけられ壊されていくだけでしょう。
 なら何かを残しても意味はなくなっていく。
 残るは自分だけ、今だけ、そして金だけになる。
 自分が楽をしたいがために、将来世代にツケを残すなということになっていく。
 過去から連綿と続いてきたものを重荷だそんなめんどくさいものは邪魔だ、と考え背負わず好き勝手に楽をするためには、将来世代にツケを「背負わせてはいけなくなる」。
 そう考えるようになっていったら、自然ととあるセリフが口から出てそれを何の疑問もなく受け入れるでしょう。
 
 「将来世代にツケを残すな!」、と。

『税金という金だけ』

 経済で物作りなんかどうでもよく金のみという感覚が広がりそれに囚われたらどうなるのか。
 それは税を税金という金だけの視点でしか見れなくなり、税金とは自分の金を無理やり奪われて政府の手元にもどったら消えるだけの虚しい事、ただの記号冷たい数字としてしか映らないでしょう。
 
 そこは社会や経済を豊かにしたいというだけだなく、ごく一部を除き個人の金持ちになりたいという欲さえ徐々になくなっていく。
 飼い慣らされていく。
 ある意味みんな平等で安定しているぬるま湯に浸かっていられる。
 お金を発行し使うことはどれだけ公平を心がけていても差が出てしまう。
 そうなると平等というぬるま湯にいたのにそこから追い出される。
 気持ち良いところから追い出されるくらいなら金なんて、発行するな、作るな、使うな、と。
 平等のぬるま湯からでるくらいなら豊かになんかなりたくない、そんな感覚に浸り続けていく。
 そんな空気を社会は政治は実現していくことになる。
 そして平等を実現する社会は、平等を望む多くの人達と除かれそれを拒否した極一部の金だけしかすがるものがない者ら「両者」により、皮肉にもとんでもない格差の社会になっていくのかもしれません。
 
 そんな状況で経済の数字が上がっても、より格差はひどくなり増えるのも長続きせず上っ面だけ。
 そこには共同体や社会や歴史、そして経済の語源である経世済民といった「みんな」という考えや感覚は育まれないと思います。
 なぜならツケという負債は…

『ツケとは?~負債という黒の意義~』

 ツケとはなんでしょう? 負債ですね。
 負債と聞いたら負担になるし、イヤだなと思ってしまいます。
 よいイメージはないですよね。
 色でいうなら白というより黒が頭に浮かびます。
 しかし、ツケを作ったらこそできることがあります。
 それは、ツケで物が買えます。
 ツケで飲み食いができます。
 強い信用があるなら、ツケで投資だってできます。
 つまり、ツケはお金となりえます。
 なぜお金になり得るのか?
 それは自分の物作りの力を見極め、ツケと同額(以上)の物を価値を作り返すという信用、つまり約束を負うから。
 物が商品があるから作ろうとするからこそ、お金は使える。
 ツケを残せる、残してもよい資格を持つ者、つまり物の売り買いができるまっとうなツケ(お金)を作り残せるのは、自ら背負う覚悟がある者だけなのではないか。
 そしてそれは、税についてもお金についても同じかもしれません。
 背負わせてよいのは、背負う覚悟がある者だけ。

『負わせてよい者達は・・・』

 国民に「まっとうな税」という負担を負わせてよいのは、「まっとうな財政出動」をし通貨という負債を負う覚悟がある政府だけなのではないでしょうか。
 通貨を発行し負債を負い、それにより生まれたお金を適切に使いみんなにお金を行き渡らせ税を払えるだけの、いえ払っても余裕があるだけの国民の生活を、所得を、仕事を、物作りの土台を、ひとりよがりの平等ではなくまわりを見据えた公正なルールを、経済を豊かにしようとする覚悟をもった政府だけ。
 
 政府に通貨という負債を負わせてよいのは、「まっとうな税」なら負う覚悟がある国民だけなのではないでしょうか。
 まっとうな税だったら自分のお金にならなくても、それだけの価値ある物を作り上げて返してやる、譲り合ってやる、助け合ってやる、という覚悟をもった国民だけが政府に負債を負わせ、通貨を作れ!、財政出動しろ!、と言えるのかもしれません。

『おまけ』

 最近、政府の負債が増え続けるのが当たり前、政府が赤字なのは当然、といった言葉をききます。
 政府の赤字が当たり前ということは、文字通り将来にツケ(負債)を残すという事なのではないでしょうか。
 そのことに対して、将来世代に負担を~と将来ばかりに目がいっているように見えます。
 しかし政府の赤字が当然ということは、同時に過去の政府も赤字だということ。
 それは、過去の世代が「今」の私達にツケ(負債)を残しているということではないでしょうか。
 ならその政府が発行する負債(通貨)を、将来世代の負担~とか言って作らなかったり、返済しなくてよい負債といって返すことを拒否したらどうなるのか?
 ツケを残し残される。
 これはいったいどういうことなのか?、をあれこれ考えてみました。

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