これまで返済しなくてよい負債について述べてきました。
それは通貨とは政府(日銀含む)の負債で、かつ特殊な負債で返済しなくてよい負債だと。
なぜ政府の負債(通貨)が返済しなくてよい特殊な負債となるのかと言えば、通貨を発行できる政府が通貨という負債を自ら生み出し、それを借りる相手も返す相手も政府自身だからだ、ということ。
これを簡単に言えば、自分から借りて自分に返す、だから返済しなくてよい負債なんだと。
政府を自分自身という身近なことに置き換え、わかりやすくしたのだと思います。
しかし、そこをわかりやすいといって安易に「自分」と置き換えたらいったいどうなるのか?
『俺が政府だ!』
それは政府が、自分と同じように見えてきてしまうのではないでしょうか。
もちろん頭では、政府と自分が同じなんてわけがないと思っているでしょう。
しかし、感覚として政府と自分が同じだとみなすようになっていく。
「俺が政府だ!」、という感覚になったらどうなるのでしょう?
『政府=総理大臣?』
政府といっても色んな部署があり多くの人がいます。
そんなこまごまとしたところまで、政府を知っている人はあまりいないでしょう。
なので、政府の代表となる人を頭に思い浮かべる。
わかりやすいのが総理大臣ですね。
その総理大臣が雰囲気がよいとか顔がいいとか理由はなんでもいいから、自分にとって受け入れやすい雰囲気を持っていたら、「自分=政府=総理大臣」みたいな感覚になっていくのではないでしょうか。
だって政府(のトップである総理大臣)が通貨を発行することは、自分がお金を発行して自分に返すようなもの、というのですから。
『代わりはいる?いない?』
ところでいっとき「〇〇総理の代わりはいない!」、といったセリフを耳にしました。
待望の総理が実現したその期待から、そんな言葉が出てきたのかもしれません。
ところで、総理大臣という役職の肩書をみると、「第△△△代総理」なんていうように書かれています。
ということは総理大臣とは、代替わりしてきたということですね。
総理はどんどん変わってきたし、総理という役職が続いていくのならこれからも変わっていくはずです。
なのになぜ、「〇〇総理の代わりはいない!」といった極端なセリフが出てきたのでしょう?
『いる自分』
それは政府を自分と考え、政府をわかりやすい存在として総理を頭に思い浮かべ、それが一直線に繋がったのではないでしょうか。
「自分=政府=総理大臣」となっていたら、さきの言葉がどう聞こえるようになるでしょう。
それは、「〇〇総理の代わりはいない!」が「自分の代わりはいない!」となる。
総理大臣に自分をあてはめ、自分自身を必死に守ろうとしているのではないのか。
逆を考えてみるとわかりやすいです。
『いらない自分』
「〇〇総理の代わりはいる」となったら、それは「自分の代わりはいる」となります。
それを認めるのはなかなかにきつい。
自分の代わりはいるなら、自分は別にいてもいなくてもいいことになります。
自分が何のためにいるのか分からなくなるってきます。
自分を否定されるように聞こえてくる。
そうなると、自分を守るためには「〇〇総理の代わりはいない!」と叫ばざるをえなくなる。
『影と写し身』
「〇〇総理の代わりはいない!」というセリフは一見当の総理を守っているいるようで、実はその総理は誰でもよかったのかもしれません。
なんか顔がよいとか雰囲気がよいとか気に入るポイントがあれば、自分と重ねてその影に自分を写し見ている。
その総理が人気が出れば出るほど、自分はみんなと同じだという気分に浸れる。
だから、その総理の言う事は政府の言う事になりそれは自分の言う事になる。
その総理の言う事に従わないのは自分の言う事に従わないと同じになり、それは排除すべき敵に見えてくるのかもしれません。
『スタンドアローンコンプレックス~同調~』
見ているのは自分だけという個。
そこに政府と個人と自分に違いはなくなると、自分しかない孤独なのに、総理大臣という中継器を通してなんかその他大勢と繋がっているっぽい安心した感じになる。
それが脅かされるとき、必死に自分を守るかのように「〇〇総理の代わりはいない!」というセリフが中継器で繋がった口から、自然と生まれてきたのかもしれません。