
『無難な演説』
無難、これ以上ないほどの無難な演説だった。
ゼレンスキー大統領の演説である。
一部左翼からはパールハーバーに触れたんだから広島・長崎にも触れろとか・・、一部右翼からは軍事施設を狙った攻撃を、無差別の911と同一視されるのは気に入らんとか・・、極左からも極右からもゼレンスキー大統領は批難されていた。
(注・程度の低い左派と右派はもう面倒くさいので極左・極右とひとくくりにする。)
ある意味ではどんな演説が飛び出すのかと日本中が興味を持って見まもっていただろう。
兵器の要望や衛星情報の提供の要望など、そこにはさまざまな憶測が流れていた。
しかしその内容は、感謝であった。
軍事支援もアメリカやEU諸国に遠く及ばない日本国が、感謝されてしまったのである。
たしかに経済制裁には参加した。しかし、欧米のように肝心かなめの軍事面ではほとんど日本は貢献できていない。
ウクライナ防衛のための武器1つ送れない。
私自身も正直たいしたことはできていないと思っていた。
それなのに、感謝されたのである。
もっと重要な軍事的な援助もできてないのに、感謝されてしまったのである。
では、内心足りないと思っている分、もっとできる範囲とは言え、彼らの手助けをしなければならなくなるではないか。
少ない援助に最大限の感謝をされたのならば、こちらもそれ相応のそれに見合ったものにしなければならない。
それ相応のものができていないのに、過分な感謝を頂いてしまったのである。
過分なもらいもの(感謝)は、それに見合ったものを返さなければならないのである。
これを受けて、今後日本国はできる範囲内の話しではあっても、ウクライナに日本の最大限の手助けをしなければならなくなるであろう。
そこに、極左や極右の反発は今までよりも少なくなるのではないかと思われる。
なぜなら、過分なものをもらったのならば、その過分なものをお返しするのは、日本人としては当然の行為だからである。
感謝されたのになにもしないのは、日本人にとって最大の非礼行為だからである。
日本国は日本国のできる最大の援助をできるようになるだろう。
(いやらしい話だが、これで日本政府は日本国民の様々な苦情を最小限にして、国際社会に自由民主主義国家G7の一角日本として、最大限のウクライナ支援をアピールもできる)
『ある意味ではこんな演説は一番聞きたくなかった』
この演説が、ウクライナ側からの日本の専守防衛事情を鑑みた演説なのか・・、日本政府からの無難な内容へとの要望なのか・・、たいした期待は日本にできないという裏返しなのか・・、または、日本人の種族特性を良く理解した上での最大限無難な演説なのかは、わからない。
しかし、結果としては、日本人に感謝のお返しをしなければならないという責務を与えるものになったのは、ほぼ間違いないのではないだろうかと私は思う。
意図はわからないが、結果として日本人にもっともささる内容になったのではないだろうかと思う。
極左も極右も、ある意味ではこんな演説は一番聞きたくなかったのではないだろうか。
『終わりに』
それでは最後に、記事を終えるにあたり一言添えて、筆をおこうと思う。
「ウクライナに栄光あれ」