自分の周辺が大丈夫だといっているからといって、国民全員が大丈夫だというわけではない。おそらく、見ている範囲は同じようなクラスの人間の間の切り取られた社会であって、国政を預かる者としては、できる限りいろいろな改装の人間を見ていく必要がある。新型コロナウイルス感染拡大第1波の時は、お肉券から始まって、最終的には、国民一人当たり一律10万円という、取りこぼしのない形での現金給付が実現した。もちろん最初から自民党政権はこんなことをしようとして無かったことは強調してもしきれないぐらいのことはあるだろう。 最初に出てきたお肉券は、そもそもコロナが収束してからの経済活性化(ただし、食肉業界とそれに関連する業種への波及効果)を狙ったものだった。それの変形がGoToキャンペーンということになるが、まだ、収束の気配もないのに、収束後の政策をやってしまうところが、なんというか一貫性のない政策をやっていることの証左でもある。
逆に言えば、今回の麻生大臣の断言も、それほど理由があってのことではないといえるだろう。要するに、平時の財務省の考え方をそのまま述べたということである。頭にはコロナ対策という概念は、表面上はあっても、実は本気で考えていない。要は自分たちだけの判断であれば、首相が言ったように自助だけで何とかしろ、公助をする政府は平時の緊縮財政の運転で行く、といっているだけのことである。要するに、経済環境を少しでもまともに見ればわかる、経済衰退の状態にもかかわらず、基礎的財政収支(税収ー政府支出)が黒字になるということを2025年までに達成するような財政政策を続けるといっているのである。さすがに、世の中の状況みなさすぎであろう・・、ということである。そう。見なさ過ぎなのである。要するに、国民が文句を言わずに、この政権の支持を一定以上し続ければ、この路線、コロナはなかったものとした経済政策をし続けるといっているのである。
麻生大臣の言葉は重い。これは、何もせずには決定がひっくり返らないことを意味する。
逆に言えば、国民が徒党を組んで、この決定に反対し、10万円の再給付を求めることはできる。国会議員を突き上げ、内閣支持率をぐっと下げることだ。すでに、国民を助けるということ考えていなことが、自らの口から、自助だけを重視するという旨の発言として、発言したことについて、忠実に政策として進めていることからわかろうというものである。その見立ては間違ってなかったということだ。
俺たちの麻生などと、今から考えればどうでもいいような、ほめ方もあった日もあったが、すでにそんな頼りがいのある人ではない。国民が政府の外圧となって突き動かさなければ、いくらでも国民を間接的に殺す気が満々なただの人でなし政治家である、という認識に立たねばなるまい。
10万円の再給付は最低限必要な経済政策である。20年以上の緊縮財政に続いて起こったコロナで、これまで耐えてきた経済も、その担い手があきらめて廃業していっているというむごい事実を改めて知らなければならない。関係ないと思っていても、社会の構造そのものが現実に失われて行っていることは、「淘汰」して新しく生まれ変わる、などというようなまっちょろい問題ではないのである。失われたものは、新たに生まれ変わる気力もなく、ただ、なくなるだけなのである。それを防ぐための政府の公助は、未来の日本にとってカネに引き換えができないぐらいの価値があることなのである。それを、データの操作でなんとでもなる財源を出し惜しむという愚の骨頂で、失っていく姿は、安物買いの銭失いという言葉で表される現象の国家版といえるだろう。未来に残すべきものはカネというデータの数字ではない。インフラであったり、モノやサービスを提供できる企業やそこで働く人々、そしてそこにためられた技術やスキルなのである。