説明なしにシャケ丸ごと一匹がドアノブにかけられていたら不審がられるに決まっている。少なくともそういうノリであること、悪気はなくて、よい贈り物だと理解してもらえる間柄でなければならないだろう。(波よ聞いてくれ)
連日のコロナ災禍に対する報道は、病気としてのコロナについての話題が多い。当然、命や健康にかかわることであるので、もっとも気になるところがそこだからだろう。当然それを責めることはできない。本能的なものだからだ。しかし、それを受けて、これまで人との接触が前提としてきた商売について、その在り方を修正せざるを得ない状況が強制的に発生している。それに対して、コロナは風邪だから無視すればよいというのはあまりにも、人間の健康で過ごしたい本能を無視しているといわざるを得ないだろう。目に見えていれば回避できるものが、知らぬうちに感染して後で発症するという恐怖は、健康に生きるという状況を著しく損なう状況であることであることには変わりないのである。
しかし、その転換は簡単にはいかない。これまで当たり前のように行ってきた状況において、それまでのカネの儲け方が通用しないことは確かである。それでも、国民が豊かになっていくためにはどうすればよいかを考えていかなければならないのである。
それは、人との接触を制限することで、集客が少なくなるという多くの分野においてどう対処するべきかというところにもつながっていくだろう。要するに、コロナ以前の状態では、とにかく安物買いを大量にさせて儲けるというスタイルが普通になりつつあった。それは一見うまくいっていたようにも見えるが、コロナ災禍によって、その脆弱さが浮き彫りになったということである。どういうことをしたらカネを稼ぐことができて、豊かな生活ができるのか。それも、一部のずるがしこい経営者だけが豊かさを独占し、多くの庶民が仕事の苦労の割には大した収入も得られず、安かろう悪かろうな商品や広告にまみれ、品質も安全性もあやうくなったサービスで表面上だけ取り繕ったもので、「満足」させられているのである。
IT技術に見られるように、組み合わせの提案が次から次へと激しい業界もあり、それが世界を社会を支配しているように思われるところもあるが、それとて一部のずるがしこい連中に富が集中する仕組みを支えているだけという側面もある。オープンといいながら考えの多様性などは実は狭小な連中のコミュニティーだといわれても言い過ぎではないだろう。当然反論はあるだろうが、その、革命的、左翼的な考え方は、それまでの伝統や文化などを相当に軽んじている考え方に支配されている。新しい組み合わせを柔軟に考えるにはよい態度だろうが、果たしてそれほどの急激な変化は、社会の様々なものを安定的に張って居させるためよいかといわれると疑問しか残らない。このやりかたの成功のおかげで、そもそも、目的が何なのかが不明になっているきらいがある。だからこそ、フィンテックだのというような、金融工学に拒否感もなくむしろ推奨されたりしているのだろう。
物事は、そのようなつなげるところだけを一生懸命頑張ったところで上限はすぐそこにあるし、そのつなげるを極めると、個々の人間が個人としての活動が究極的にはなくなっていくことになる。要するに、能無しのスカスカな人間になって活動することになるのである。つなげすぎることは、多様性も文化ものっぺりとした、グローバルスタンダード1つに染め上げられてしまうことになる。
そういうことを意識しているのかわからないが、日本国政府が日本国内にまじめに投資しなくなって20年以上の時間がたっている。いわゆる公共投資という割れるものがその方針によって、必要と思われるものの半分以下の水準で推移しているのである。それで、各種の自然災害、そして、コロナ災禍に対して悲鳴を上げているが、当然そんなことに対応する構造が失われているということである。目先の金もうけを優先したがゆえに、日本では物を作らなくなってしまったのである。まだ残ってはいるが、ニッチなものになってきており、コロナでもマスクすらまともに作れなかったように多くの生産は、中国や東南アジアに流出してしまっているのである。その理由は、モノ作ってももうからないから、外に出した。ということだろう。しかし、短期的なカネの代わりに失った未来の生産能力、研究能力の喪失は、そんなはした金に見合うものではないのである。
だからあきらめろ、というわけではない。あきらめることは、我々の、我々の子孫の早死にを意味するからである。要するに自死することとほぼイコールなのだ。あきらめることはできないのは、生きていくためにはそういう茂垣が必要だということである。
このような生命の危機に瀕していることを踏まえ、今の政府のやり方をあらゆる面で批判しなければならないのである。そもそも、多くの庶民の生活や将来のことを考えた議論が政治で、まじめに行われていないことからである。一部に、財政についての転換をしようという考えの議員はいても、状況を覆すのは怖くてできていない状況である。これは、選挙の結果にフィードバックしなければ、結局は動かないのである。