“お金はあってもモノが買えない時代”、“モノは溢れているのにお金がなくて買えない時代”…。
貧困問題や経済問題の話になると、日本人はこの両極端な状況を持ち出し、それを比較の物差しにしがちです。
緊縮財政に端を発する平成・令和デフレ不況を批判すると、現状容認派のバカから返ってくる、「いまの不況が大変だって?モノやサービスがいくらでも溢れているじゃないか。贅沢を言うな!戦中・戦後の物資不足の頃の厳しさを思えば、いまの不況なんて大したことない。黙って働けよ!職なんていくらでもあるだろっ。選り好みするなよ(# ゚Д゚)」というテンプレ回答など、その最たる例でしょう。
モノがない、お金がないというセリフが出てくるのは、私たちが暮らす経済社会に大きな問題が存在し、それが経済循環を大きく阻害している何よりの証拠です。
問題や課題を放置したまま、苦しい現状を容認・追認することで己の不明や努力不足を棚上げし、逆に、それらの解決に奔走する者を批難することで、自らの地位が相対的に劣位せぬよう装う卑怯さには反吐を吐きかけたくなりますね。
なぜ、“誰もが十分な所得とお金を所有し、躊躇せずに好きなモノを買える時代”を目指さないのでしょうか?
私は不思議で仕方ありません。
私は、「超積極財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会、明日は今日より豊かになれると誰もが確信できる時代」を目指しています。
そのための政策手段として、
・政府紙幣の発行(貨幣の製造・供給)
・日銀による国債直受け(主導的金融緩和政策)
・税制の限りなき廃止
・社会保障負担の大幅軽減
・継続型給付金の実施(月3-4万円/人)
・地方交付税交付金の大幅増額
・公的インフラの整備
・防衛、治安、科学技術、教育、医療、福祉など各重要分野への財政支出強化
・野放図な市場開放に対する規制強化
などを主張してきました。
それらはいずれも、「官から民への貨幣供給」につながるものです。
こうした超積極財政策に対して、“財政が破綻する、ハイパーインフレを招く、国民を麻薬漬けにする、労働意欲を毀損するetc”といった批判を数多く受けてきましたが、いずれも幼稚かつ根拠なき愚論ばかりで一笑に付すしかありません。
私が超積極財政策を主張する意図は、「世界最先端レベルに達したモノ・サービスの生産力・技術力・供給網を維持向上させるため」に他なりません。
戦中・戦後のような“お金はあってもモノが買えない時代”も、平成・令和不況期の“モノは溢れているのにお金がなくて買えない時代”も絶対にあってはなりません。
そういった異常事態を放置したままだと、国民生活の最重要基盤である国富(=人材・技術・生産・情報・流通)、つまり、衣・食・住・娯楽を支えるモノやサービスを生み出し運用する力が失われてしまうからです。
この数年のうちにも、ロイヤルホスト、ジョイフル、いきなりステーキ、幸楽苑、すたみな太郎、ガスト、31アイス、牛角、甘太郎、HotMotto、ミスタードーナツ、不二家、かっぱ寿司、モスバーガーなど大手チェーン店の大量閉店が相次いでいます。
これらは折からの消費不況に増税やコロナ禍が圧し掛かった結果でしょうが、その根源にある“国民全体の所得不足”という病根から目を背け、「ビジネスモデルの限界でしょ」とか「消費者の嗜好の変化に対応できなかったからでしょ」と解説者気取りで放置したままどと、やがて不況ウイルスは他の流通業界やメーカーにも波及し、社会全体を根治不能な恐慌へと陥れるでしょう。
これだけの大手チェーン店が大量閉店に追い込まれているということは、我が国の消費支出もその分だけ減っているということですが、問題は減った分の消費が他の商品やサービスの消費に回されず行き場を失っていることです。
消費減退は企業の売上ダウンに直結し、仕入れ物価や労働者への分配率を引き下げ、デフレスパイラルを生み出します。
今年9月の消費支出は前年同月比▲10.2%となり、昨年10月以降12ヵ月連続の対前年同月比マイナスを記録しました。
家計の実収入こそ、+2.6%と増えていますが、その内訳をみると、大黒柱たる世帯主収入は▲1.3%と4ヵ月連続減少となる一方で配偶者の収入が+12.0%、他の世帯員の収入が+12.8%となっており、御主人の減収分を奥さんがパートに出ることで何とか補いカツカツの状態をキープしている様子が覗えます。(+コロナ給付金による増収も寄与)
【参照先】
https://www.stat.go.jp/data/kakei/sokuhou/tsuki/pdf/fies_mr.pdfこんな危なっかしい家計収入では消費に自信を得ることなど不可能でしょうから、このまま事態を放置すると、消費や需要という補給路を断たれた日本の供給力は完膚なきまで破壊され尽くし、そう遠くない将来に“お金はあってもモノが買えない時代”を迎えることになるでしょう。
お金はあってもモノが買えない時代の苦しさは我々の想像を絶するものです。
「今から、50数年前、戦争が終わりました。戦時中や戦後、食糧事情が悪く普通なら捨てていたものまで、いろいろ工夫して食べていたそうです。今の私たちには、とても信じられませんが、本当のことだそうです。いくつかをここに記してみます。
◆みかんの皮~干してから炊ってすりつぶし、ふりかけの材料やパン・すいとん等の中に入れる。
◆とうもろこしの芯~薄く切ってから水煮し、煮出汁にすると砂糖の代用になる。
◆キャベツの芯~繊維を切るように横に細くきざみ煮物、油炒め、塩もみ、塩漬け、御飯に混ぜる等。
◆南瓜、西瓜の種~干してから、炊いて堅い皮を取り、落花生(らっかせい)などの代用品。
【普通では、食べられない物の調理方法】
◆のこぎりくず~粉末にして、小麦粉・米粉などに20%混ぜる。
◆さなぎ~そのまま佃煮にして、粉類に混ぜ、団子とする。
◆いなご・バッタ~羽を取り熱湯に入れて、足を取り除く。
◆ねずみ~味は、鳥肉のような味がする。但し骨は、人間に害があるので取り除く。よく消毒をして食用にする。」
【参照先】
「戦争と食糧事情」
「日本は第一次対戦後、国土が傷ついていないアジア唯一の先進国として欧米からの資本が流入し、大都市を中心とした大量消費社会の中、俗に昭和モダンと呼ばれる近代市民文化が誕生した。
日本初のターミナルデパートや地下鉄が登場したのもこの時期だよな。丸の内には近代的なオフィスビルが立ち並び、銀座にはネオン輝く繁華街が出現。朝は郊外の家から満員の汽車に乗って通勤し、お昼は丸の内のレストランでランチを、夜は銀座のカフェでビールをおって、今のサラリーマン文化が構築されたのもこの頃だったわけだ。
またお子様ランチ・キャラメル・サイダー・カルピス・インスタントコーヒー・角瓶など現在でもおなじみの食品が数多く開発された時期でもある。電気も普及し廉価製品もあったっていうから、要は都会に限って言えばお金さえあれば今とさほど変わらない生活ができる時代になったってことだよな。
ところが昭和モダンは突如終わりを迎える
昭和12年北京郊外の盧溝橋で起こった日中双方の軍事衝突はやがて両軍の前面衝突にまで発展。世に言う日中戦争が勃発する。
(略)
そこで始められたのがいわゆる配給制という制度で、最初はガソリンや重油、生糸など重要軍事物資に限っていた配給は、しばらくすると生活必需品にまで及び、コメ・みそ・しょうゆ・塩・マッチ・砂糖・木炭などから始まって昭和16年ころにはほとんどの物資が配給制になっていった。
お金があっても自由にモノが買えない時代になってしまったんだな」
【参照先】
「【ゆっくり歴史解説】戦時中の日本~食料・物資事情~【戦中】【昭和】」
大正ロマンから昭和モダンの時代を経て、1980年代~90年代前半期とほぼ変わらぬほど高度な発展を遂げた戦前期の生活レベルを一気に困窮のどん底に陥れたのは、当時の戦争による人材や供給力の崩壊が惹き起こした極度の物資不足によるもの(とはいえ、日中戦争や第二次世界大戦自体を頭ごなしに批難するつもりはありませんが…)でしたが、平成・令和恐慌下にある私たちもまた、戦前の日本人と同様、供給力崩壊の危機に晒されています。
ただし、眼前に迫りくる危機は、戦争による供給力の破壊によってではなく、緊縮思想という邪教に染まり、「政府がお金を使うのは悪」、「ムダ遣いは敵」、「日本経済はもう成熟しこれ以上発展できない、否、発展させてはならない」という自傷行為により惹き起こされようとしています。
つまり、日本経済を崩壊させるのは直接的な外敵ではなく、私たちの脳を侵食した緊縮思想という目に見えぬ危険なウイルスなのです。
お金を使ってはいけない、お金に頼るのは後ろめたいこと、という如何わしい信教が日本人の経済観に重篤な精神疾患をもたらしたのです。
こうした危機を回避し、再度の経済敗戦から立ち直るために必要なのは、「お金を使ってはいけない、お金に頼るのは後ろめたいこと」という幻覚を振り払い、国富を維持発展させるために、家計や企業という経済の主要プレーヤーに対して政府が積極的に貨幣を供給するという経済常識を取り戻すことです。
お金(貨幣)という国民共有の資産を有効に活用して民間の消費・投資活動を活性化させ、供給サイドに絶えず養分を送り続ける経済システムを構築せねばなりません。
いまや“財源探し”に奔走する発想は時代遅れです。
財源は貨幣製造や国債増発、日銀の国債直受けなどで無限に確保可能ですから、そんなものを探すのに貴重な時間を費やすのはムダでしかありません。
令和の世において最重要視すべきは“社会的課題・問題の解決をいかに短時間で為し得るか”という発想でしょう。
奇しくもMMTの提唱者の一人であるS・ケルトン氏は、東洋経済のインタビュー記事で次のように述べています。
(https://toyokeizai.net/articles/-/385241)
『まず2019年を振り返ると、アメリカ大統領選挙に出馬した民主党候補者は23人にも上り、バーニー・サンダース氏や(その後副大統領候補になった)カマラ・ハリス氏を含め、たくさんの候補者が演説で国民皆医療保険創設や学生ローン債務免除、グリーンニューディール(脱炭素化関連の公共事業)などのインフラ投資事業を選挙公約に掲げた。
その際、どの討論番組でも「では、財源はどうしますか?」という質問が発せられた。2019年を通じて、政治討論でアメリカ全体を支配した最大の質問は「お金をどこから持ってくるのか」だった。「政府が何かをやるとき、財政赤字をあてにすることはできず、誰かの税金を見つけてきて、それで新たな支出を相殺しなければならない」という考えがすべての議論のベースにあった。
ところが2020年3月に新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な流行)が起きると、議会は何兆ドルもの財政支出法案を可決させた。一瞬にして「財源はどうするのか」という質問は消えてしまったのだ。
それを目の当たりにした人々は、「議会はヘルスケアや教育、学生ローン問題への支出を優先的な政策とみなさず、予算を通さなかったが、新型コロナウイルス対策ではそれをやった。今回できたなら、ほかの優先的な政策でもできるはずだ」と理解しはじめた。』
そう、「財源はどうするのか?」という質問はすでに前時代の遺物であり、そうした質問をすること自体が蔑まれる時代に移ったことを認識せねばなりません。
「BIをやるための100兆円の財源をどうするのか?」と質問すること自体が恥。
「BIに財源を取られ消費税廃止ができなくなる」と主張すること自体が時代遅れの財源論に囚われた愚論。
「財源探しから社会的課題解決へ」という時代の変化についていけないと、気づかぬうちに緊縮思想の罠に嵌まってしまうものです。