新型コロナの影響により3月上旬から3か月近く休校を余儀なくされた学校が多かったようですが、受験生、とりわけ大学受験を控えた受験生は気が狂うほどの焦りを感じているのではないでしょうか。
『大学入試日程、固まる 共通テストは第2日程も設定』
「新型コロナウイルスの影響で、変更も検討されていた大学入試の日程がようやく決まりました。11月の学校推薦型選抜(旧推薦入試)の出願と、来年1月の大学入学共通テスト(旧センター試験)の試験日は予定通りに。(略) 「学習の遅れ」を理由にした、共通テストの第2日程(追試)の設定や、各大学の個別試験における出題範囲の配慮など、例年と異なる対応も示されました。(略) 全高長は「一番厳しい状況の地域に配慮をするべきだ」として1カ月の後ろ倒しを求める方針を示していました。全高長のメンバーである私立高校の多くや大学側は混乱を避けるため、後ろ倒しには反対でした。(略)」
9月入学だ、大学入試日程の変更だと大騒ぎした割に、ほぼ当初予定どおりの入試実施という判断が下され、その都度、不安や期待感に揺れ動かされ続けた受験生の心情を思うと、無能な文部行政と自分勝手な大学サイドに強い憤りを覚えます。
もし、私がいまの受験生の立場に置かれたなら、「受験にはクソも役立たない高校の授業に無駄な時間を割かれずに済み、好きなだけ家で受験勉強できる」と悦んだと思います。
実際、ネットニュースのコメント欄を見ても、”大学は義務教育じゃないんだから、下手な配慮は無用”、”コロナの影響を受けるのは受験生みな同じ”、”やる気のある受験生は自分から進んで勉強しているはずだから、休校を理由にダダを捏ねる奴の心配なんてする必要ない”といった意見が散見されます。
本当に冷たい意見ばかりですね。
やたらと他者へ自己責任とか自助を強要したがる昨今の卑しい風潮を垣間見るようで、情けない限りです。
どんなことでもそうですが、物事の判断基準というものは、一部のエリート層ややる気のある層に合わせて決めてはいけません。
あくまでも一般人や最頻値にレベルを合わせないと、理想が独り歩きするだけの実践力を伴わない制度に成り果ててしまいます。
私が大学受験に挑んだのは、いまから三十数年も前のことで、当時の大学進学率は25%くらいで、受験制度は共通一次テスト(=大学入試センター試験)+国公立大学2校受験可というもので、現在のような前期合格→後期受験放棄というなんちゃって2校受験(実質1.5校)ではありません。
ガチの2校受験がOKの時代で、A日程・B日程ダブル合格すれば、2-3日のうちにどちらかを選択するという方式でした。
当時は高校生の数自体も多く、競争率はいまの倍以上ありましたが、周囲を田畑に囲まれたド田舎高校通いの私は、都会の名門校や有名私立校の受験生は普段の授業から高度な受験対策授業が行われ、学校帰りにはターミナル駅前にある有名予備校(当時は代ゼミ・駿台・河合塾が御三家でした)に通っているのだろうと勝手に妄想し、彼らには到底追いつけないのではと悶々と焦りを募らせていたのを覚えています。
私は共通一次の社会で倫理政経を選択した(私が受験した年の共通一次は国・数・英+理・社各1科目の800点満点)のですが、高校では政経の授業自体がなく、その点を教師に問い質すと、「アレっ、政経って受験科目に入ってたっけ?」と惚けた返答をされ、慌てて政経の教科書を本屋で買い込み勉強しましたが、田舎の高校ってのは万事がこの調子でしたから、都会の進学校や有名校の受験生に引き離されるジリジリした不安に苛まれながら、日々焦りと闘い受験勉強に勤しんでいました。
それでも、3年生の夏休みに姉のAPに泊まり込み、代ゼミの夏期講習(1週間)を受けさせてもらったのですが、これぞまさに受験に役立つ勉強というか、こういった高度な授業を日々受ける機会に恵まれた都会の受験生のことを心底羨んだものです。
それと同時に、「これほど高度な授業を毎日のように受けている連中と本当に競争できるのか?」とさらに焦りに駆られたのも事実です。
そうした自分の受験生時代を思い返すたびに、コロナ禍に翻弄される今年の受験生の厚遇は如何ばかりかと心配になります。
今回のコロナ休校はいかにもやりすぎで、3月いっぱいの休校措置で充分、4月以降は通常どおりの授業を行うべきでした。
受験期スタートの2ヶ月を棒に振ったのは、あまりにも大きな痛手であり、また、大学共通テストという馬鹿々々しい新制度導入元年であることを考慮すれば、少なくとも今年度は受験時期を2ヶ月ほど後ろ倒しすべきで、大学入学もそれに倣ってズラすべきです。
いまの大学は夏期休暇や春期休暇が合わせて3.5ヶ月くらいありますし、通常の授業日程を圧縮すれば、2ヵ月程度の調整は何とかなるでしょう。
ここは大学側が努力すべき部分だと思います。(大学の教授連中なんて、どうせ暇を持て余しているんですから…)
ずいぶん前のエントリーでも触れたことがありますが、大学受験に関して私が不満に思う点がいくつかあります。
①受験生、特に交通の不便な地域の受験生に要らぬ負担を強いる共通テスト(旧センター試験)の類いは廃止すべき。
②仮に共通テストをやるのなら、実施時期を雪害による交通障害やインフルエンザの流行を避けるため、真冬ではない時期に行い、試験会場は全国の高校とする。また、採点結果を2-3日のうちに事務局から高校を通じて個人に書面で通知すること。(浪人生は自宅へ直送)
③大学受験は3月中旬以降に実施し、試験方法は個別大学による試験(いまの2次試験)のみ。ただし、国公立大学を前期・中期・後期の3つの日程に分け、2-3校受験できる体制にすること。(入学時期を5月に後ろ倒しして、引っ越しシーズンのピークを避ける)
また、首都圏・中京圏・阪神圏以外の地方国公立大学の定員を2-3割増やし、地方への人材移転を進めること。
④コロナなどのパンデミック対策として、医療や看護系の学生確保のため、該当学部・学科の定員を3-4割増やすこと。
まず、①について、受験生にとって軸足を置くべきは2次試験対策であり、共通テスト(旧センター試験)対策は無駄な時間を取られるだけの足手まといでしかありません。
どうしても必要なら、私立学校受験用の共通テストとして残すのは構いませんが、国公立大学を受験するレベルの生徒にとっては、受験科目をより深く勉強するための時間を削がれる負担感しか感じません。
次に②について、受験制度全体に言えることですが、雪害による交通麻痺、インフルエンザの流行、体調を崩しやすい冬季間の試験恐慌という苦行は、あまりにも不合理です。
どうしても共通テストが必要なら、そうした弊害のない時期、例えば11-12月上旬まで行うべきでしょう。
また、共通テスト終了の翌日に、精神的・身体的にヘトヘトになった受験生を高校に呼びつけて自己採点させる現行の方式も、あまりに酷いもので、何のためのマークシート方式なのかと、大学入試センターの無能さを最大限の言葉で罵りたい気分です。
マークシート方式なんですから、機械にかければすぐに採点結果は出るはずで、それを高校に通知すればよいだけのことです。
高い受験料(18,000円)を分捕っておきながら、そのくらいのサービスもできないようなら、そもそも共通テストなんて不用です。
私が共通テスト不要論を唱えるもう一つの理由が、都心部以外に居住する受験生に圧し掛かる金銭的・体力的な負担です。
私が旧共通一次試験を受験した折の話ですが、自宅から列車を乗り継いで2時間掛かる県内のとある大学が受験会場で朝早い開始時間に間に合わないため、受験会場から列車で30分ほどの街に泊まり込み2泊3日の受験を強いられました。
世間のこともよく知らぬ高校生が、見知らぬ街の見知らぬ宿に泊まるだけでも神経を使うのに、これが人生初の大学受験に被さるのですから、考えただけでもうんざりします。
おまけに2次試験は、列車と飛行機を使っての移動と宿泊で5泊6日の大旅行ですから、心身ともに疲れましたし、費用を出してくれた親の負担も大きかったと思います。
せめて一次試験だけでも、いつも通っている高校で受験させてくれれば、地域間格差や田舎の受験生が背負うハンデも軽減されるでしょう。
③については、前述のとおり、雪害やインフルといった障害に遭うリスクを減らすための措置であり、受験生になるべく多くのチャンスを与えたいという思いからの提言です。
地域や国の礎を担う国公立大学の生徒をより多く育成し、首都圏に偏りがちな人材の偏在を是正するためには、地方国公立大学の受験機会や定員増を検討する必要性は高いと考えています。
④は、コロナだけでなく、全国的に医療体制の貧弱化が問題視される(特に地域医療の崩壊)実状を鑑みて、国民生活の基本中の基本である健康維持や医療受診サービスの提供を護るため、医療や看護従事者の数をさらに増やす必要があると考えるゆえのことです。
”合格者をいたずらに増やすと、医療技術の低下につながるのでは?”という疑問もあるでしょうが、どんな職業でも大切なのは、スタートラインに立った時の能力ではなく、就業を重ねる期間に培うスキルや経験ですから、個々人のポテンシャルに頼るよりも、努力ややる気に期待する方が健全だと思います。
以上、長々と述べてきましたが、教育は国家の礎ですから、居住地による格差を狭めるためにも、何かとハンデを背負う地方やそこに暮らす受験生に配慮した制度に改革してほしいものです。