「知足」という言葉
「知足(足るを知る)」という言葉/徳目があります。龍安寺のつくばい(手水鉢)にある「吾唯足知(われただたるをしる)」の方が有名かもしれません。
出典は老子で「自分の持ち分に満足し安んじて、欲張らないこと」。
仏教の格言にも「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」。
贅沢や飽食、強欲を戒める言葉で、武士道・質実剛健を好む保守/右派にも、自然志向でロハスなリベラル/左派にも好まれるようです。
「あくせく働いてきたけど、いつか本当に大切なものを見失っていた」
「ここではないどこかを求めてきたけれど、答えはすぐそばにあったんだ」
「今のまま、ありのままで十分すばらしいんだ」
というようなテーマの歌や映画やドラマがありますが、これまた「知足」に通ずるものだと思います。
「目標が達成できない」「願望が成就しない」「苦しみ・悩みから逃れられない」というような人々に対して、「知足」は救いや癒しとなる言葉でもありましょう。
「足るを知る」の欺瞞
しかし同時に、「がんばっても報われない」「苦境が続く」ということを容認してしまう危険もあります。
バブル崩壊~平成9年の消費税増税(5%)以降のデフレ不況・経済衰退を、「これでいいのだ」と受け容れさせる方向に作用し得ます。
「これからは心の時代だ」
「経済成長主義から脱しよう」
「成熟した国、小さくてもキラッと輝く国になろう」
といったような欺瞞が導き出されるわけです。
「成長しなくていい」=「苦しむ者は放っておけ」
とはいえ現実の世は、各国経済は競争のただ中にある。
GDPによって示される国力が弱まれば、他国につけ込まれる。
尖閣諸島の危機などを見れば、それは明らかです。
また打ち続く自然災害(台風、大雨、地震など)を食い止めたり、疫病や難病を克服したりすることも難しくなる。
防災にしても医療にしても、経済成長に伴う研究開発投資があってこそ可能です。
「経済成長しなくていい」は
「防災なんてできなくていい」
「疫病で死んでもいい」
「難病や障害で苦しむ者は放っておけ」
というのと同義です。
「知足」という言葉によって戒められるべきは強欲、野放図な金儲けであり、現代で言えば伝統的な公秩序や自然環境、人々の安定した生活等を破壊する規制緩和やグローバル適応こそ戒められねばなりません。
神道と「進歩・発展」
そもそも経済成長は必須のものです。
神道に代表される古来からの日本思想においても、それは自然の姿です。
我が国は「八百万の神々の国」、人間を含めてあらゆるものに神霊が宿ると言われますが、
J.W.T・メーソン著『神ながらの道』(1933)によれば、そこには「神霊というものは自己創造的に拡大して行くものだという思想」(p.63)がある。
また p.90-91 には以下のような記述があります。(読みやすいように適宜改行を追加します)
神道はその日本国民に与えた感化を通じて、常に、人類の進歩こそ地上に於ける神霊の目的なることを説いているのである。
神道に於いては生命は、有目的的である。詳言すれば生命とは、自ら創造せる物質界に於いて、新しき表現を求める神霊の有目的的活動の事である。
神道は人間の個性を以て誤謬とも考えず又神秘的な全体の中に没入して始めて価値あるものとも考えない。
又神道は、新知識を得、或は新欲望を増加し満足する人間の努力を不思議な神霊的加護又は悪霊の感化の結果だとは考えない。
神道は、人間は生れ出でることによって欺かれたものだなどとは信じない。
寧ろ地上生活は神霊の望む所である。地上生活は、善悪一切の表現に於ける、神霊の現実相である。即ち神霊は地上的努力に依って客観的拡大を遂げるのである。
絶えず創造力の更新を求め、絶えずその物質的環境に於ける進歩をはかり、又絶えず変通無凝な活動力の発展を求める神霊――これが神道に於ける生命の中心点である。
「成長」は日本人にとって自然の理
上記の進歩や発展はすなわち「成長」と言えましょう。
「成長」は日本人にとって自然の理なのです。
そして、国民全体すなわち国家としての成長は経済成長であり、GDP拡大(生産・所得・消費の拡大)です。
上図で明らかですが、我が国のGDPが成長していないのは公共事業をはじめとする政府支出が少ないから。「国の借金」のせいではなく、「国の借金を怖がり過ぎている」からです。
「国の借金」は実際は「政府の借金」であり、「政府の貨幣発行残高」「国民の資産」であって、増やす方が経済は成長し、国民が豊かになるものなのです。
受け継いだものに気づく~「足るを知る」
このようなことは
仁徳天皇の民のかまど(減税、民の豊かさこそ国家の豊かさ)、
江戸の繁栄(大規模公共事業、都市開発の効果)、
荻原重秀の「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」(現代的貨幣観)
といったことなどからも明らかです。
天皇を中心とする我が国の思想や歴史、伝統を顧みれば、現代の問題を解決する知恵は十分にある。まさにこの点において、私たちは自分たちが受け継ぎ、積み重ねて来たものに目を向ける、「足るを知る」べきだと思います。
といって、海外の学問・知識を無視しろというのではありません。
「よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな」(明治天皇御製)
MMTなど有用なものは参考にして、我が国の成長を目指したいものです。
小欲知足、小欲で強欲を戒め、知足で自分の不十分、もしくは十分を知る、つまりは腹八分目を知るw・・・みたいな解釈もできそうですね
まあやはり、仏教なので、基本は清貧を尊ぶような意味合いから派出した言葉とも思いますが・・、時代の変遷で意味は変わりますし、そもそもたしか、仏教は中道とか、中庸を重んじる思想だったとも思いますので、こういう腹八分目的解釈でも、もしかしたらまあ、悪いってことはないかもしれませんねw
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