自己責任論賛成・自己責任論者は自分を卑怯な人間と認めるに等しいという事実

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 何かあるとすぐ自己責任! 炎上するのも困窮するのも、たたかれるのも自己責任! こんな風潮が日本には存在します。
 自分を自己責任論者と認めていなくても、何かあれば自己責任を振り回す人の多いこと。自己責任論賛成の人たちとでも、表現すればよいでしょうか。

 自己責任論者や自己責任論賛成の人たちは、論理的に「自らは卑怯で卑屈な存在である」と公言しているに等しいという「事実」を解説してみたいと思います。

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自己責任論者や自己責任論賛成の人たちの特徴

特徴1 すべての結果は本人の努力不足と思っている

 自己責任論に賛成の人たちの特徴は「努力は報われる。結果が出ない努力は、努力の方向性が間違っていた」と考えることです。したがって「結果が出ていない困窮した弱者」は「努力しなかった」か「努力の方向性を間違えた」と結論づけられます。

 よって「怠けたのも間違えたのも自己責任! 自分が悪いんでしょ!」とするのです。

特徴2 正しい努力は必ず報われるはずと言うナイーブさ

 自分たちがある程度の地位や所得、生活を手にしているのは「正しい努力をしてきたから」と思うのが自己責任論者や、自己責任論に賛成する人たちです。

 つまり「報われていない=正しくない」のであり、「正しくない=悪い」となります。よって自己責任に賛成する人たちは「報われない人たちを『自己責任!』とたたくのは、むしろ弱者を正しく導いてやっている行為」となります。
 あまりにもナイーブ幼稚な理屈であることは、常識的な大人なら理解できるはずです。

特徴3 努力の質と量が同じなら、同じ結果や評価が下ると信じている

 自己責任論への賛成は、あまりに純朴で単純な平等性への妄信が根底にあります。なぜなら「正しい努力は”いつでも”報われるはず」とは、常に正しい努力には正しい評価が下されるはずという平等性が前提条件として存在しています。

現実の世界は努力を必ず評価して報いいるか?

 当然ですが「よい結果が出たから正しい努力」は論理的に間違いです。なぜなら「努力している時点では、結果がわからない。よって正しいかどうかは判断できない」のですから、正しい努力を選択することも不可能です。
 「たまたま結果がついてきた」から「それは正しい努力だった」と、後付けで評価しているだけなのです。

  1. どの努力が正しいか? の判定は、リアルタイムでは不可能
  2. 現実は「正しいか間違っているか」の二択ではない
  3. 正解がない選択肢も当然ありうる

自己責任論賛成の人たちの共通点は「現実から目を背けていること」

 現実は不確実性に満ちています。よって「正しいであろう努力が、突然報われなくなる」ことだってあり得ます。就職氷河期世代などは、その典型例です。
 現実とはかくも困難で、複雑なものです。

 その現実の中で「自分たちは正しい努力をしてきたから報われている」「報われないのは努力していないから」と切って捨てるのは、単なる現実逃避や思考停止です。

自己責任論はほぼ貧困問題とセット語られる

 2008年のリーマンショック以降の、年越し派遣村。生活保護受給者の急増や就職氷河期世代の貧困。これらの議論には必ず、自己責任論に賛成する人たちが絡んできます。
「非正規雇用になったのは自己責任! 派遣も自己責任! 生活保護? 税金で生きてるんだから無駄遣いするな!」

 貧困状態に陥る=弱者と定義可能ですから、自己責任論に賛成する人たちは弱者に向かって「自己責任!」と叫んでいることになります。

 迂遠な言い方はやめましょう。自己責任を振りかざし、自己責任論に賛成する人たちは、弱者たたきの口実に自己責任論を利用しているだけです。
 その本質は「弱者をたたき、正義面して鬱憤を晴らす」という、いじめの構造と全く同じなのです!

 なぜ本稿のタイトルが「自己責任論賛成・自己責任論者は自分を卑怯な人間と認めるに等しいという事実」であるか。自己責任論者たちは「いじめている人間」ないし「いじめを知っていて傍観している人間」と同じなのです。つまり「卑怯な人間」というわけ。

自己責任論への賛成とエリート性の崩壊

 日本ではエリートたちが、自己責任論を振り回すという話もよく聞きます。遡れば小泉純一郎内閣から、日本では自己責任論が蔓延しました。
 新自由主義やグローバリズムも、自己責任論の蔓延を後押ししています。

 エリートの語源とは「神に選ばれたもの」であり、公共に仕える人という意味です。日本語で言えば公僕が、エリートの意味に近いでしょうか。
 エリート性と公は、切っても切り離せない関係なのです。

 しかし自己責任論は、公の責任をパージしていきます。エリートが自己責任論を振りかざすとき、それはもはや「エリートではない何か」に変質しているのです。
 上から下まで自己責任を唱える日本に、もはやエリートは存在していないのかもしれません。

日本の自己責任論の歴史

 本稿では自己責任論と、自己責任論への賛成の病理を描こうとしています。その家庭で検索をしていましたら、非常に面白い記事を見つけました。

「自己責任」とか言う人に、これからは「江戸時代の村人と同じだね☆」と言い返そうと思います。
貧しくて年貢を収められない世帯があれば村が救済にあたる。しかし、そこには社会的制裁も…。

 実は江戸時代から、日本の自己責任論は続いているのだそうです。

  1. 木下光生奈良大学教授の著書 貧困と自己責任の近世日本史
  2. 江戸時代でも貧しい人を救済しつつ制裁した
  3. 村から施しを受ける→見た目などを制限される
    「日笠をさすな」「雪駄を履くな」「施主人の屋敷に伺うときは這い入るように……」
  4. このような制限があったため「助けてもらうのが申し訳ない」と、一家総出で夜逃げのケースも

 『不実/我侭』な村人の救済度合いを低く見積もった1800年の大和国山之坊村の姿勢と、水際作戦で生活保護申請を認めず、結果として40代の姉妹二人を餓死させた2010〜12年の札幌市白石区福祉事務所の態度とは、異質なものではなく、同じ土俵上にある同質の問題だといえよう。

貧困と自己責任の近世日本史

 江戸時代は米という限られた資源を、貧困の救済に充てたわけです。よって「俺たちの血税を」という言い分は、ある程度の正当性を持ったでしょう。
 しかし現代は近代資本主義社会であり、MMTの議論では「税は通貨を駆動するために存在する」のであって、税金から支出をしているわけではありません。

 にもかかわらず江戸時代と同じ「自己責任論」を、現代人が唱えているのは非常に不条理なことではないでしょうか。

なぜ人は自己責任論に賛成するのか

 自己責任論は、個人に責任をすべて還元します。よって政府や政策、国家といったものがしっかりしているかどうか? が問われません。

 貧困は自己責任! であるなら、政府は貧困対策をしなくてよいからです。

 自己責任論とは「強者へのおもねり」と「弱者へのたたき」という、もっとも嫌らしい姿ではないでしょうか。誰しも「上司へごまをすり、部下につらく当たる上司」は嫌いでしょ?
 しかし強者へおもねることは、最も楽なことでもあります。

 なぜ日本で自己責任論が、こんなに強いのか? 表だった賛成は多くないものの、そのメンタルが根強く染みついているのか?
 様々な議論に還元可能でしょう。皆様もぜひ、少し考えてみてください。

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