肝心のことについては実は全然目にも入っていないとすれば、それはまともな仕事につながるかといえば、継続的にやればやるほどに乖離して現実とは無関係なことをやっていることにつながる。本当のことだと思っていることは関係なく、現実に合わないことをやり続けているということにもなりかねないのである。
何度でも繰り返す詭弁は、この国の生産能力を大きく損ねる構造を作り上げてきた。頼る必要もない労働移民を輸入することによる低賃金労働によって金儲けができることや、第2次産業の生産を中国や東南アジアに出すことで、金儲けができるようになるということ、第1次産業でさえも、戦後一貫してアメリカやオーストラリアなどの国に大きく食料供給を依存し自給率を低下させていきながらも、高級ブランドの農作物で、金儲けができるようにする。
とにかく、国力を、その場の金儲けができるような姿に変えていくと、豊かになっていくので正しいという考えが蔓延し、今もその考えからは逃れられない。金儲けに関係ない仕事については、徹底的に色んな理由をつけてサボるような方向性がつけられている。政府の仕事は全般的に金儲けにはつながらないものだ。例外的なものは、政商と言われる公共事業や政府が定める制度を歪めることでカネを掠め取って自らの金儲けに直結させるような商売人の金儲けにつながる仕事は確実に行われている。当の官僚でさえもそのようなことは、企業の金儲けに繋がり、豊かになることだ。あるいは、国際的な金儲け競争で勝つことで、優位になれるから良い、という物語のもとで躊躇なく積極的に政商たちが内閣直轄の審議会などを通じて政商たちが自分たちの利益誘導のための詭弁を取り入れて、政策として実行していくのである。法律のサポートも政府が進んで決定し、小選挙区制に支えられた議論なき政治で法案の決定が即断されていくのである。
そんな背景での菅首相の答弁はいつ聞いてもむごたらしいものとなる。
特に、自助という言葉に対する執着が著しく、嫉妬深い考え方を持ちながら、周りを恫喝して自らが固執した考えを現実に融和することなく独走し続ける姿は恐怖を感じるものであるが、あまりにも現実とかけ離れているので、かえって実感が伴わないものかもしれない。それでも、彼の言うことがベースとなって政策は作られていくというのは、政治の仕組みとして厳然と存在するものである。
税金というものは別に政府の支出の財源ではない。それを強く結びつける竹中平蔵氏が主導して導入した、税収と政府支出がバランスするべきであるというプライマリーバランスの黒字化という財政上の目標は、ほとんど無意味な目標であり、それを目標とした財政的な政策は、必要な仕事が必要な仕事として認識されなくなる、という意味で大変有害なものになっている。
それを実現するための景気が悪いときも、あるいは、国民の賃金が下がっていく局面においても、容赦なく、国民の頭数に対して安定的に徴収できる税金が消費税というものである。税収が支出の財源だという考えにとらわれているとハマってしまう、消費税は安定財源なので必要だ、という考えは、そこから外れると恐怖に感じるという意味では相当悪質な、物語だろう。それを信じていることで、消費税による税収の比率を上げていくことになり、その結果に消費を大幅に抑制していく税制が固定化されていくのだ。
税収と支出は直接関係ない、すなわち、独立に決められるものなので、社会保障云々は本来は関係ない話であるが、政府支出の代表例としてあげているだけに過ぎない。関係ありそうな気がしているだけなのである。景気が良ければそういう詭弁も実は気にならない状況だけに過ぎなかったのである。しかし、一旦歯車が悪い方向に回りだすと悪い方向に加速する力しかなかったので、状況を本当に悪化させている。
コロナの感染拡大を防止しなければ安心安全な社会活動ができない状況により経済活動が抑制されている中で、更に消費を落ち込ませ、経済活動の抑制圧力を強くかけ続けている消費税を弁護する発言をするのは、経済の仕組みを知る気もない浮世離れした人間が、政府の頂点に居座っているという禍々しい状況の象徴的なものなのである。
自助という物語に支配された首相はこのまま走り続ける事になりため、経済的な状況は悪化の一途をたどるばかりである。給付金に関しては、訴え続けたら、だいぶあとになってから出てくる可能性があるが、それでも死者狂で訴え続けて、必要なものの何分の1ぐらいかが出てくるに過ぎない。要するに、嫌々ながら対応することになるだろう。短期的にはそのような対応が必要であるが、長期的には、この考えの根底にある、自助で金儲けすることが豊かになる唯一のやり方、というただの守銭奴の論理からの脱却が必要になることは知っておく必要がある。
自助を国民に強いる今の政権では、国民が貧困化するばかりである。