伝統をなめてはいけない。「効率化」のために考えたつもりでも考え落とすことは多い。

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人への関心は、好きの反対は、無関心。嫌いというのは反応をして関心がずいぶん残っている状態のことなのである。適当な仕事をしてしまうのは、嫌いというよりは無関心の部類に入るのだろうか。(やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。)

12億円で修理された日光東照宮の陽明門 すでにカビがつき塗装も剥がれる - ライブドアニュース
3年前に大規模な修復工事をした日光東照宮の陽明門についてFRIDAYが報じた。約12億円の費用が投じられたが、すでにカビがつき塗装も剥がれているという。剥離やカビは寛永年間の技術で修復したため、仕方ない部分もあると担当者

伝統工芸について、その時々の技術者・職人が直していくことで、このような古い建物が今の今まで残っているという事実がある。それは、大変名誉なことで、しかも、我々の名誉ということだけではなくて、これまでそれを維持し続けてきた先人も含めて名誉なことなのである。逆に、うっかりするとその名誉を汚すこともできてしまう。

それは、伝統的なやり方を「非効率なもの」と決め込んで、新たに作り直した方法、あるいは、それまでのやりかたから不要と思われるものを取り除いたリストを、「必要だと証明されたリスト」としてさも意味があるように運用すると、うまく行くものがうまく行かないこともある。それがわかるのが何年もあとになれば、それを咎める人間もその場にいないことになってしまうので、問題は深刻である。上記の記事はまさにそのような流れで起こってしまったことだろう。どのようなことをやったかはいないが、それを端的に想像できる記述があった。

「伝統的な塗料は扱いが難しい。6年かかる予定の修理が4年で終わったことが関係しているのかもしれません。急いだ結果として剥がれてしまった。カビについては湿気対策の不足が考えられます」

6年かかっている工期が4年になった。これは無駄を省いてやったからだ、とその対応した企業は、今の価値観ではほめそやされるのではないだろうか。しかし、後から指摘されているとはいえ、日光地方の気候を理解してやっているかどうか、そもそも、どこの感覚で、やることリストの棚卸をしたのかが気になるところである。

「これ、無駄なんじゃね?」

というそのプロジェクトを見ていた責任者も認めるような「効率化」を優先した意見が、もっといろいろ知っている人の意見も聞かずに、「効率化至上主義」ともいえる現在のきぎょ論理で決まったとすると、伝統工芸が一体何なのか。とにかく、会社が多すぎで半分以上「淘汰」しなければならないということを真顔で言ってしまうようなことに賛同するような経営者だったとすれば、それはこのような伝統工芸に対する仕事をする資格があるかどうか。

「大修理のために地元の住民は協賛金を出しているんですよ。こんな状況では観光客の方に見てもらえません。日光が湿気が多いところだというのは事前にわかっていたことです。もっと工夫ができなかったのでしょうか」

知っている人は知っている。すなわち、工事の利害関係者に広く意見を聞けば防げたものであった。それには時間もカネもかかることにはなるが、それが大事であるということを10年程度の時間でわかるような、すぐにメッキがはがれるような仕事を伝統工芸専門の仕事としてやるような視野の狭さで、仮に、日本経済の未来を考えて、中小企業を半分淘汰すれば、金儲けができる、などといっているようでは、金融屋特有のその場のカネの動きは読めても、技術の価値はいまいちわかっていない、奇をてらったものがあればそれに引っ張られる単純思考であろうことは容易に想像できる。当然口は立つ。ただ、口がたったところで、肝心なことをわざとか無意識にか落としてしまうようでは、その解決策は大して役に立たないことになってしまう。規模が大きければ、その損失をカバーできないぐらいにひどい損害を未来にもたらしてしまうことになるのだ。その警笛であるとこの件を見るぐらいの警戒感は欲しい。

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