昨年、東京池袋で高齢者が運転する車が暴走し親子2人が死亡、多数の負傷者を出した事故の裁判が行われている。車を運転していた飯塚幸三被告は、車の欠陥が原因で自身のミスは無かったとして無罪を主張しており、これに対し世論の怒りが強まっている。
車の記録装置のデータなどで車の異常は無く、アクセルが強く踏まれていたことが分かっているのに無罪を主張する飯塚被告に対し私も強い憤りをおぼえるし、法と証拠に基づき厳正な刑事、民事両面の処分を下すべきだと当然思う。ただ、裁判というのは当事者以外の国民がとやかく言ってもそんなに判決が変わるものではないし、そもそも世論に過剰に左右されてはならないので見守るしかない。二度と同じような悲劇を繰り返してほしくないというご遺族の思いにこたえるために当事者ではない私達国民一人一人がやるべきことは飯塚被告を叩くことより他にもっと大事なことがあると思う。
加害者叩きだけでは次の事故を全て無くすことはできない
この事故をきっかけに高齢者の交通事故加害者への厳罰化がなされたとしてもそれだけで高齢者の事故をゼロにすることはできない。たしかに、厳罰化で免許返納を考える高齢者が増える可能性はあるが、それでも特に地方などでは生活のために車運転せざるを得ないという問題が解決されないかぎり高齢者の事故はこれからも起こる。そういう問題が放置されたまま不幸にも悲惨な事故がまた発生してしまった際に高齢者に厳罰を課すというのは健全な社会なのだろうか。私はそうは思わない。
裁判の判決は私達にはどうにもできないが政府の政策転換は私達にしかできない
裁判の判決は私達ではどうにもできないが、上記の問題解決は主権者である私達国民によってできる。というか私達主権者にしかできない。この事故は飯塚被告の過失によるものであるが、政府の緊縮財政という失策も大きな原因であり、その罪の重さは飯塚被告と同等かそれ以上だと私は思う。人的ミスによる交通事故をゼロにするという強い決意で政府が必要ならば躊躇なく国債を発行する積極財政により、歩道橋や地下道を通すなどのインフラ投資、公共交通の充実、自動運転や安全運転サポート車の開発、普及への手厚い財政支援などをやっていれば、飯塚被告の過失があったとしても誰も亡くなったり怪我をせずに済んだ可能性が高いと思う。
緊縮財政で惨事の原因を作った政府の罪はそれを黙認した私達国民の罪でもある
政府の罪は、自国通貨建てで国債発行している日本政府に財政破綻のリスクは皆無という事実を知ろうともせず、「コンクリートから人へ」だの「ムダ削減」だの「財政健全化」だのという誤った政策を支持してきた私達主権者の罪でもある。
「悲劇を繰り返してほしくない」というご遺族の思いに応えるために私達がすべきことは正しい貨幣観に基づき政府に積極財政への転換を迫ること
ありもしない財政問題を言い訳にして国民の命を守る財政出動をサボるような政府を放置すれば今後何度も何度も悲劇は繰り返されるだろう。インフレ率の許容範囲内においては日本政府に財源の制約は無いという事実を理解し、声を上げ政策転換を迫ることこそ二度と悲劇を繰り返さぬために私達主権者が今すべきことなのではないだろうか。