思えばこの20年の日本の歩みは、ムカ着火ファイヤー!である。(のうりん)
昨年の4月で社会人になって20年たっていた。平成時代の3分の一を社会人として過ごしたことになる。それ以前の学生時代ではバブル崩壊から、冷戦終結によるアメリカによる平和がもたらされると思われていた。その中でとられていたのは、それ以前の積極財政政策の失敗をことさら強調する新自由主義が、ほかの政策のなににおいても何でもかんでも正しいという空気を世界中にまき散らしており、それが常識化される時期とも重なっていた。
日本においては、1990年代初頭のバブル崩壊の総括ができないまま、1990年代の中盤にかけて無駄遣いが悪かったという無根拠な常識が醸成され、それは改革という言葉で美化されていた。その無駄遣いの象徴として国債の発行高の値が使われて、国の借金というのは、借金という名前がついているので悪いという常識が出来上がった。
この流れは、1997年の最終的に橋本政権の行革と消費税5%化とその後の緊縮財政を決定づける基本法を作った後は、それが経典となりその後の名にはなくても緊縮財政という流れが続けられてきた。リーマンバブル崩壊までは、日本国内の事情とはほとんど無関係な外需がよかったことから、国内の緊縮の悪影響が国民の生活にはそれほど影響がないように見えていたが、企業が国家のため国民のためという基本的な姿勢をすてて、外資の株主を受け入れそれの支配下にはいるという資本家の希望通りの会社法の改悪をへて、国民を豊かにしてきた構造を国際資本家に譲り渡す構造を作り上げていく。
そういう方針の中、2000年代以降は、緊縮財政に伴い、企業も国内に投資することをやめていく。生産拠点を本当に安易な理由で中国や東南アジアに移していく。とにかく金を儲ければそれでよいという、会社の社会に対して最も役に立たない方針を資本主義の原理通りに最適化した株主資本主義という形で政策に取り込んでいった。人材は無駄なものであり、その場で役に立つもの以外は不要であるという考え方で特に、2010年代は、リストラが進められ、幅広く行っていた事業も新しいことをすることに金を使わなくなっていく。これは、政府の投資もそうだし、民間の投資も政府の後ろ盾がない限りはそうなっていったのである。
リストラの一環として、高齢従業員の首切りに加えて新卒の採用も絞ることになり、新しい人材を育てるという機能も放棄することになってしまっている。基本的には人は育てなければ多くのスキルが身につかないものである。仕事をしなければ、スキルや技術が向上することがない。利益を出すことだけに手中することで、スキルや技術の向上た蓄積に相当する仕事をしなくなった。やったのは、外国への技術の譲り渡しの作業だけかもしれない。
教育機会は、企業が採用を絞り、教育を放棄していくことと、年々上がり続ける教育費を容認する政策と、教養を身に着ける教育の削減のトリプルパンチで、国民を高度な仕事ができる人間に育て上げていた教養教育も職業教育も失い、自己責任で身に着けるという方向になっていく。要するに、カネで教育を買えということである。しかも、国民の一体性を持つ機会もなく、さしずめ中世世界の貴族と貧民といううぐらいのお互いの意識が分離した状態も作り出す。
そういう教育構造では、一部のとびぬけた能力の持ち主や、ほんの一握りしかいない財産もちの親がいるものは、教育を受ける機会を与えられ、それによって、高い給料を得る仕事に就くことができる。いわゆる勝ち組という連中である。それ以外の人間は自己責任という教育機会の放棄の対象となり、持てる能力を引き出される機会もなく、不安定な雇用(非正規、または、派遣会社の正規)で、働きに対して不当に安い賃金で働かされ続けることになる。豊かな生活を送るためには全く不足する収入の中で生活し、定年後の年金もひどく少なく、医療費も高い状態で、悲惨な老後を迎えることになる。
しかし、仮に特例的に勝ち組に入れたものでも、一族にフォローできる余裕がない場合によっては、心身の故障を起こしてしまうと、そのカテゴリーから容易に落ちこぼれることになる。それも自己責任。一族として地位が固定化されていくというのはこういう構造から引き起こされるものである。
こんな不安定で限定的な豊かさは、貴族奴隷社会というべき状況であろう。貴族以外はまともな人間出来ないという社会である。国際資本家のトップレベルの一族はそのような世界を望んでいるという話もある。貧民が反乱を起こさない程度の圧倒的な格差をもたらすことが彼らの理想で格差は大きければ大きいほど良いという考え方なのである。
残念ながら、日本においてはそんな少ない人間だけでは自然災害に対抗できるほど甘くはないのである。できるだけ多くの働き手(当然家庭を維持するというのも仕事)が最大限の働きをしなければどうしようもないのである。資本家のカネのための無駄な仕事をしている場合はないのである。政府は、国内産業の保護に政策を切り替え、放棄されている国民経済を復興させるのに集中しなければならないときである。
政府は税金を取ることが仕事ではない。不当に利益を上げているところから税金を取って、国家国民が必要とするインフラの仕事に使う必要がある。その際に、税金から足らない部分は、国債発行などで調達すればよいのである。カネというのは、そういう道具であり、政府はそれを管理している事実上の主体であるので、必要に応じてカネを流せばよいのである。政府の発注する仕事を民間が受け止められるようにしていくことが大事なことであり、要するに継続的に仕事があるようにすることが大事なことなのだ。1990年代から続く緊縮財政は、その正循環を断ち切ってしまったことが問題だったのである。間違ったことは、元に戻すことをベースに考え直すことが大事である。