経済は何のためにあるか。中国に技術というネギを背負った鴨となる日本のグローバル企業。

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かつての国民企業は国民を忘れた企業になってしまったのか

トヨタもグローバル企業であるという認識が強くなってきて、とにかく市場を確保してたくさん売らなければならないという意識が最優先となっている。もともとは、日本の企業という意識が強くその中で自信を持ってきたはずであるが、バブル崩壊以来の日本経済の低迷、20年前の緊縮財政による国内経済の衰退の傾向が決定づけられ、「世界に打って出る」という言葉がグローバルに商売をしている企業の第一目標となってしまった。

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そして、安易に中国経済というカネの種に目がくらんで、それまで蓄積してきた技術を、中国の合弁会社方式にそのまま乗っかる形で取り込まれていくのだ。冷静に見れば、ばかばかしい話だろう。しかし、「カネ」という観点のみで見ると、実に「合理的な選択」なのである。日本の技術企業が近年中国資本に買収されていく姿は、その「カネ」に合理的な行動故のことである。政府もそれがまるで良いことのようにふるまっている。

グローバル経済で活躍することが最優先であることは・・

グローバルで、国境や国籍のない世界では、カネを稼ぐことのみが正義で、国籍も関係ないところでは、日本人の未来やこれから生まれる子孫のことなどはどうでもいいという論理となるだろう。そこには、日本企業としての存在価値はほとんどない。あえて言えば、ほかの国民の屍を土台にして、ずるくこれまでの日本の遺産を食いつぶして、あるいは、守銭奴として売り渡して、ひと時の栄華を味わう優越感に浸るという、人でなし集団であるということだろう。そんな行動をとるための選択に何の意味があるのかという技本を挟まない時点で、すでに存在価値が地に落ちていることを我々は見なければならないのである。

一時的なもうけはあって、しばらくしのげるという可能性はあるがその先にある未来には、日本の企業として日本人に対する貢献は限りなく下がっていくことになるだろう。そのことを意識して、いつかは反転させるという気概があるのであれば、その路線は、臥薪嘗胆路線として意味があるかもしれない。しかし、そんな気概も意識もない状況では、好き勝手にそのような選択をしているだけであって、流れるままに、中国に吸収されていくのが関の山である。その可能性も「ショウガに」と思っているのであれば、そんな企業に我々はどこに価値を感じることができるだろうか。

恐ろしいことに、細かいことから大きなことまでの物事の決定において、特に疑問視されることなく、自然に考慮されることになってしまったのた。それだけでなく国の発展を目指す大目標があるはずの政府も「新自由主義」とも呼ばれるその「グローバル企業」路線をすすむこととなっていることだ。

衰退する国民経済こそ我々の課題

衰退の一途であった国内実体経済に対しては打たれる政策である公共インフラに対する投資も減る一方で、それではあまりに「棄民」政策であることがばれてしまうことから、長年与党である自民党政権では、一般予算で少しずつ積み上げるふりをしながら、補正予算で削るというせこいごまかし方をしながら、確実に国内インフラ投資を減らし続けてきた。民主党政権では、ごまかさず、コンクリートから人へといった、国のインフラをないがしろにする政策を表に出して「売り」にしてしまったという罪深さもある。

そのに乗っかった国民はかなり罪深いだろう。そして、その後の安倍政権では、1年間の財政出動以外では、インフラ投資を抑制し続けるということを続けながら、当初予算では積み上げるというごまかしのテクニックを使って、「やっているふり」をしてごまかし続けたというもう一回り罪深いやり方をやってきた。公共投資が景気の悪さと連動しているという謎の相関があるという勘違いを生ませている。野党が緊縮財政がよいという価値観を振りまいてそれなりに支持されてしまっている状況を生み出す、間違った知識を植え付けたという意味でも、大変罪深いことをやっているのだ。

資本主義は道具であり使われたら終わり

我々は、資本主義の経済システムを回すことは手段であって、目的ではない。おそらく効率よく回転させるためには、実体経済を衰退させ、金融経済を活況させることが有効な方法論としてでてくるだろうが、それは、国家の持続性や国民の人生の豊かさを享受するという観点では全く真逆の効果しかない。カネが金持ちの間だけで回ったところで、カネの実体経済に対する価値は落ち込むだけであり、その存在はむしろ害になってしまうのである。カネが食べ物でもインフラでもサービスそのものでもないことを考えれば当然のことだろう。

国家国土国民を豊かにするために守り育てるものがある

それは実際のインフラ工事の執行量に表れてきており、補修や開発が進むべきものが一向に進まず、落ちる橋や、放棄される道路なども増えてきている。顕著なのは地方のインフラだろう。当方が定期的に訪れる「廃道」は、県道としての戸籍はありながら、それがまともに利用できる形になったことがない道なのである。

必要な投資が行われていたら、こんなことにはならなかったとわかるだろう。道があればそこには、流通や人の交流、観光などの産業が付いてきて、実体経済の循環に与する。インフラというものはそういうものである。作って、維持することそのものに意味があるのである。そして、それを日本が発展することが自分たちの生活の向上に直結する日本人以外の外国人や移民に頼らず自分たちの技術やスキルで維持することが重要なのである。

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